超人烈伝 — 2015年10月11日 at 9:21 AM

豊島英「ロンドンでの雪辱を果たすために」

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「これで終わりたくない」
 2012年9月、初めて出場したパラリンピックでの戦いを終えた豊島英は、早くも4年後の雪辱を誓っていた――。

 豊島が車椅子バスケットボールを始めたのは、中学生の時に通っていた養護学校(現特別支援学校)の体育教師から「車椅子バスケの講習会があるみたいなんだけど、参加してみないか?」と声をかけられたことがきっかけだった。それまでチェアスキーを経験したことはあったものの、車椅子バスケはまだ一度も見たことさえもなかった。

 講習会で初めて目にした車椅子バスケに、豊島は一瞬で魅了された。
「車椅子を巧みに操作して次々とシュートを決めていく、その姿がかっこいいなぁと思ったんです。何よりスピードに魅かれました」
 豊島は迷うことなく、すぐに地元のチームに加入した。

 車椅子バスケを始めてすぐに豊島の心にあったのは「日本代表になってパラリンピックに出場すること」だった。
「チームには当時から女子の日本代表として活躍していた増子恵美さんがいたんです。身近にそういう方がいたことで、自然と『自分もいつかは』という気持ちになりました。と言っても、その時は目標というよりも漠然とした夢でしかなかったですけどね」

決意を固めた一本の電話

 そんな豊島に転機が訪れたのは2009年、20歳の時だ。彼には当時から憧れていた選手がいた。隣県のチーム「宮城MAX」の藤井新悟だ。藤井は前年の2008年、北京パラリンピックにキャプテンとして出場していた。日本は史上最高の7位入賞を果たし、彼はその立役者のひとりだった。また、藤井率いる宮城MAXはその年の日本選手権で初優勝を飾っていたのだ。

「同じガードというポジションの藤井さんは、憧れの存在でした。パスの精度やゲームコントロール力、そして選手一人ひとりに対して的確に指示やアドバイスを送っている姿を見て、すごいなぁと思っていたんです」

 時折、宮城県にまで足を伸ばし、宮城MAXの練習にも参加していたこともあって、藤井への憧れの気持ちは強まる一方だった。
「自分もあんなふうになりたい。もっと高いレベルでやりたい」
 豊島は徐々に宮城MAXへの移籍を考えるようになっていった。しかし、なかなか決めきることができずにいた。

 そんなある日のことだった。豊島の元に1本の電話があった。藤井からだった。
「もし良かったら、うちのチームで一緒にやらないか?」
 その言葉で、目の前の霧が晴れていくように迷いは消え、豊島の決意は固まった。
「僕が移籍するかどうか悩んでいたことを、藤井さんはわかっていたんでしょうね。それでわざわざ電話をかけてくれたんだと思います。藤井さんの電話が、僕の背中を押してくれました。今の僕があるのも、そのおかげなんです」

 翌2009年、豊島は宮城MAXの一員となった。それが、彼のバスケ人生を大きく変えたことは間違いない。

大会優勝の宮城MAXでMVPに選ばれた豊島英=第43回日本車椅子バスケットボール選手権大会

大会優勝の宮城MAXでMVPに選ばれた豊島英=第43回日本車椅子バスケットボール選手権大会

“雪辱の舞台”リオへの切符をかけた戦い

 国内最高峰のレベルでバスケができる環境で、豊島の技術は磨かれていった。その年、初めて日本代表候補の合宿に初招集されると、翌2010年には初代表入りを果たし、世界選手権に出場。そして、ついに2012年には目標としていたパラリンピック(ロンドン)に出場したのである。

「車椅子バスケの選手としては最高峰のパラリンピックの舞台に立てたことは、本当に嬉しかったです。特に、試合前の国歌斉唱の時は、日の丸を見ながら『あぁ、本当にパラリンピックのコートに立っているんだな』という実感がわきました。前年の2011年に起きた東日本大震災では、本当にたくさんのサポートをいただき、そのおかげでこの時を迎えられたという気持ちもありました。自分はベンチにいることが多かったけれど、それでも与えられた役割をしっかりと果たそうという思いで臨みました」

 しかし、全日程を終えた時、豊島の心を一番に占めていたのは悔しさだった。北京大会での7位という成績を上回る「ベスト4」という目標を掲げていた日本だったが、結果は9位。決勝トーナメントにさえ進出することができなかった。

「正直、悔しいと思うことの方が多い大会でした。だからこそ、『自分はこのままで終わりたくない』と思ったんです。この悔しさを、絶対に次のパラリンピックでぶつけるぞ、と」

 あれから3年が経ち、日本代表は今、“次のパラリンピック”の切符をかけた戦いに挑んでいる。来年のリオデジャネイロパラリンピックの最終予選、アジア・オセアニアチャンピオンシップだ。出場12チームのうち、切符を得られるのは上位3チームだ。

 今や主力のひとりとして、日本代表に欠かすことのできないプレーヤーにまで成長した豊島は、攻守にわたってチームを支えている。
「必ずリオへの切符をつかみます。そうしなければ、あの舞台に立つことさえもできないわけですからね」
 体格やパワーで勝る海外選手を相手に、“小さな巨人”が立ち向かう――。

<豊島英(とよしま・あきら)>
1989年2月16日、福島県生まれ。生後4カ月で髄膜炎を患い、両脚が不自由となり、車椅子生活となる。中学生の時に車椅子バスケットボールを始め、地元の「TEAM EARTH」に入った。2009年に「宮城MAX」へ移籍し、同年日本代表候補の合宿に初招集される。翌2010年には初代表入りを果たし、世界選手権に出場。2012年ロンドンパラリンピックにも出場した。現在では日本代表のスタメンとして活躍。昨年アジアパラ競技大会では準優勝に大きく貢献した。毎年5月に行われる日本選手権では2010、2013、2015年と3度MVPに輝いている。

文:斎藤寿子 写真:越智貴雄