updated 05/10/24

人物コラム「跳躍の先に」 〜 鈴木徹/走り高跳び
2Mに挑戦する鈴木選手=2005ジャパンパラリンピック陸上競技大会(撮影:越智貴雄)

 かつて経験したことのない強烈な痛みが、虚ろな意識を一瞬にして覚醒させていた。右足を覆う疼きはもはや痛みを超え、熱く火照り、ジンジンと痺れている。彼はこのとき初めて、苦痛が極点に達すると涙など流す余地の無いことを知った。

 鈴木徹が居眠り運転による交通事故に見舞われたのは、1999年2月24日のことである。中高とハンドボール部に所属し、国体で3位に入賞した実績をもつ彼は、スポーツ推薦による筑波大学への進学を決めていた。右足切断という突如として訪れた不幸に、しかし鈴木は「落ち込んでいる暇はほとんどなかった」という。

「もちろん切断すると知ったときには落ち込みましたよ。足が徐々に冷たくなってきて、周りから言われなくても自分で判るものなんです。当然、涙も流しました。でも自分の不注意で起した事故の代償を背負うのは当然だし、早く義足を付けてハンドボールに復帰しようと思ってましたから」

 半年間に渡る入院とリハビリを経てからも、ハンドボールに対するおもいは変らない。義足を履きジョギングできるまでに回復を遂げた鈴木は、さらなる走力をつけるため、東京都国立市にある多摩障害者スポーツセンターに入った。このときスタッフの誘いで足を運んだ中央大学の陸上競技場での出来事が、偶然にしてのちの彼の人生を大きく左右する分岐点となる。走り高跳びとの出合いである。

 当時を思い返し、鈴木は笑う。「100m走ってみたら20秒かかったんです。高校時代の記録は11秒そこそこでしたから、これは厳しいなと思った。それでふと脇を見たら高跳びのセットが置かれていたんですね。で、何の気なしに跳んでみたら1m65を超えた。当時、日本記録が1m55だということは知ってましたから、これはもう、やるしかないじゃないですか」。

 無論、素地は十分にあった。中学のころは陸上部員を差し置いて県大会に出場できるほどの成績を弾き、1m76という記録を残している。またハンドボールにおいてもゴール前でのスカイプレーを多用するポジションを担っていたのだ。

「義足でも自分の身長は跳べるだろう」という自信は果して間もなく、現実のものとなる。2000年4月、公式戦初出場となる九州パラリンピックで1m74の日本記録をマークすると、つづく5月の日本身体障害者陸上競技選手権大会では自身の身長を超える1m81を跳んだ。図らずして訪れた出合いによって新たな競技に魅了された鈴木は、跳ぶたびに記録を更新し、瞬く間にシドニーパラリンピックの代表権を手に入れたのである。

「高跳びをやってよかった」と、鈴木は頬を緩める。
「何事もなくハンドボールを続けていたら、既定のルートに乗ってその世界しか知らずに歳を取っていったと思うんです。でも片足を失い高跳びと出合って、個人競技の魅力を知ることができた。個人競技は勝ったときの喜びが総て自分に向いてくるし、まして高跳びは勝ち残れば観衆の注目を一人で独占できますからね。スポーツの現場ではだれよりも目立ちたい僕にとって、だから高跳びは自分がもっとも光り輝ける場所なんです」

 しかしジャンプはつねに追い風に恵まれる訳ではない。国内第一人者へと飛躍しライバルを海外に求めるようになるのと相俟って、自身のなかにも新たな敵が芽生えてきた。2002年5月、インターナショナルチャレンジ2003大会に出場すると、目の前でアメリカのジェフ・スキバが2m8を記録する。現世界記録保持者でもあるジェフは、日常生活用の義足を備え競技に臨んでいた。短距離ランナーが使うスプリント用の義足を履いていた鈴木に、このとき「日常生活用のほうが高く跳べるのではないか」という迷いが生じる。以後、ジェフに倣って義足を変更した彼は、この大会を最後に1m90の壁を越えられなくなり結局、2004年のアテネパラリンピックを終えるまで葛藤を引き摺ることになった。

「当時は自分を知らなかったと思います」と、鈴木は振り返る。
「筑波大に入ったおかげで栄養学やスポーツ心理といった専門的な知識は身に付いていたんです。でも肝心な高跳びの基礎をきちんと学んだことはなかった。それまでの記録は身体能力に依存したものだったから、コンディションに左右され易い。記録を安定させるには、最適な義足選びはもとより技術力の向上が不可欠だと思い、大学の伝手を頼って横須賀高校陸上部の福間博樹先生に指導していただくようになったんです」

 2004年11月、彼のハイジャンプを初めて目にした福間は即座に動きの問題点を指摘し、さらに「スプリント用の義足のほうがいいのではないか」と提案する。その言葉を受け、ふたたび義足を元に戻した鈴木は2度目の跳躍練習で自己ベストを更新した。この瞬間、およそ2年間に渡り苦しんだ壁をようやく超えたのだった。

 今年に入り、鈴木は4月の東京陸上競技選手権大会で1m95の日本記録を叩き出す。さらに5月には、英国マンチェスターで行なわれたパラリンピックW杯において1m98を跳び自己ベストを再度更新、同時に銀メダルも獲得した。シドニー、アテネと出場しながら立つことの叶わなかった国際大会での初の表彰台に、しかし彼は「銀メダルよりも1m98を跳べた実績がうれしい」という。

「僕がメダルよりも数字にこだわるのは、日本選手権が目標だからです。健常者とおなじ舞台に立ってこそ注目されるし、そこで初めて競技者としての実力を比較できる。2m18が今年の日本選手権の参加標準記録ですから、まずは2m、そしてアメリカのジェフ・スキバのもつ2m9というパラリンピック世界記録を目標にして、さらにその先の記録を追い求めていきたい。パラリンピックの金メダルよりも日本選手権に出場することのほうが正直、僕にとっては勲章なんです」

 片足を失ったからこそ新たな世界を知り、新たな自分をも見出した。そして自らが健常者とともに競い脚光を浴びる未来像の奥には、義足の可能性を一人でも多くの人々に知って欲しいという、第一人者としての使命感が潜んでいる。
「義足になって初めて本当の痛みも知ったし、足が無くなったからこそここまで来れた。いま仮に右足が元通りに治るとしても、『要らない』と、僕は言います。義足には限界がないと信じてるから」
 淀みなく言い切る隻脚のハイジャンパーは、自身の限界、そして競技の垣根という既成概念さえも、跳躍しようとしている。

【記事:隈元大吾

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Toru's Web 義足のハイジャンパー−鈴木徹選手の公式ページ



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