updated 06/10/16

キャプテンシー/日の丸の自覚(中編)
シュートを放つ大島朋彦=2006オランダゴールドカップ(撮影:越智貴雄)

 2000年10月、車いすバスケットボール日本代表は、12カ国が集うシドニーパラリンピックグループリーグに臨む。初戦の相手は、開催国のオーストラリアだった。過去のバルセロナやアトランタ大会などでベスト8に進出した実績を持つ、日本にとっては格上のチームである。下馬評は圧倒的に、「オーストラリア有利」だった。

 だがそんな下馬評にも、大島には目算があった。「地元開催、しかも向こうからすれば勝って当たり前の日本が相手とあって、オーストラリアは普段よりも緊張しているはず。むしろチャンスかもしれない」。1994年のエドモントンゴールドカップを契機に、96年のアトランタパラリンピック、そして98年にはこのパラリンピックとおなじシドニーで開催されたゴールドカップに出場してきた彼は、国際大会特有の見えざる敵の存在を十全に知っていた。プレッシャーが四方を取り囲んでいる相手に対し、格下の日本にも勝算はあると踏んだのである。

 果たして、試合開始の笛が響き、時計が進み始めると、彼は自分の見込みが間違っていなかったことを実感した。オーストラリアの動きが明らかに硬い。本来ならば後押しとなるはずのホームの大歓声に逆に圧され、立て続けにシュートを外す。大島は内心でほくそ笑んだ。目論見どおりの展開だったわけだ。

 しかし、同時にコート上では、まったく計算外の事態が起こっていた。相手と同様、日本の選手たちまでもが皆な一様に緊張感を顕わにしていたのである。相手のシュートがこぼれ、リバウンドを奪い、一気呵成に攻撃に転じようとパスコースを探すも、誰ひとり目が合わない。呼吸が同期しなければ、組織が機能しないことなど自明の理だ。かといって、格上相手に個人で打開できる強さを備えているわけでもない。「組織力」というチームの生命線が断たれ、先攻逃げ切りを思い描いていた大島のゲームプランは脆くも崩れ去った。

 もちろん大島とて、チームメイトの精神状態を理解できぬわけではなかった。4年に一度、しかも選ばれし者しか立てないコートに魔物が棲んでいることは、身をもって知っている。だが国内で互いに切磋琢磨し、実力を認めているからこそ、力を出し切れないメンタリティが口惜しくてならなかった。ミスを責めているのではなく、そこに至るまでの気持ちやモチベーションの隙が許せなかった。

 さらに付け加えるならば、当時の代表チームはアトランタ、あるいはさらに遡ったバルセロナも経験しているプレイヤーがほとんどだった。実際、オーストラリア戦のスターティングオーダーは、バルセロナ大会のメンバーで構成されていた。にもかかわらず、自ら自分の首を絞めている……。「過去の経験がまったく生かされていない」誰とも交わることなく宙に浮いてしまった自身の視線の遣り場を求め続けながら、大島はもどかしさを感じざるを得なかった。

 後半に入り、本来のパフォーマンスを取り戻したオーストラリアに敗れると、グループリーグ突破の懸かる最後のスウェーデン戦でも、日本はふたたびメンタルの弱さを露呈し、最終的に9位でシドニーを後にした。そのときの心情を、大島はこう吐露する。
「代表に選ばれなかった、シドニーに来たくても来れなかった日本の選手たちに申し訳なかった。代表選手としての責任を果たせず、正直、日本に帰りたくありませんでした」

 そして、足取りの重い帰りの機中、彼は思った。
「国際大会を何度も経験している僕らが、結果を出せなかった。これ以上、自分たちがチームに残っても、また繰り返すだけだろう。もう辞めるべきだ」
 代表への思いを、大島はひとり、空に置いていこうとしていた。 

≪後編へ続く≫

【文・隈元大吾


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