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スタートライン(前編)
カチ、カチ、カチ……時計の音が闇に響く。部屋を包む深夜の静寂が、その音を一層、際立たせている。 彼は生来、本番を翌日に控えていようが、構わずぐっすりと眠りに落ちるタチだ。普段ならとっくに夢を見ているころだろう。だがその夜にかぎっては、秒針がやけに耳について眠れなかった。1時、2時、3時……。時だけは着実に、数時間後の試合へ向けてカウントダウンを刻んでいる。 眠れぬ理由は判っていた。けっして、残暑厳しい10月の真夜中の蒸し暑さのせいではない。それは、「今シーズン一番のジャンプができるに違いない」という確信からくる興奮の故だった。確たる予感と、その自信を漲らせるだけの万全な肉体が高揚感を呼び起こし、彼を眠りから遠ざけていたのである。 「あとは天気次第だな」声にならない呟きを脳裡で反芻しながら、昂ぶる意識にようやくゆっくりと幕が下りてくる。ベッドの脇に置かれた時計は、4時を回っていた。 ◆ 昨年4月、鈴木徹は第68回東京陸上選手権大会で1m95を跳び、2002年に自身がマークした1m90の日本記録を3年ぶりに更新した。さらに続く5月には、イギリスで開かれたパラリンピックワールドカップにおいて記録を伸ばし、1m98を跳んでいる。目標に掲げる2mの大台まであとわずか2cm、しかも銀メダルのおまけ付きだ。「去年は絶好調でした」一年を通して軒並み1m90を超える跳躍を果たし、彼自身、笑いの止まらないシーズンだった。 しかし今年に入ってからというもの、鈴木の数字がまったく伸びない。飛ぶ鳥を落とすような勢いは陰を潜め、取材を受けるたびに「スランプですか?」と記者に問われるほどの有様だ。 原因は明らかだった。発端は、昨年暮れに見舞われた怪我である。 これには無論、「どうにかなるだろう」という彼らしい楽観的な考えが足かせとなったことは否めない。春を迎え、騙し騙しトレーニングを再開したものの、治っては傷を生む悪循環を繰り返した。怪我の根源であるソケットを足に合うよう修繕しなければ、記録どころか練習さえ儘ならない。義足を使い始めて以来、世話になっている義肢装具士の臼井二美男を訪ねたのは、春も終わり、夏にさしかかる6月のことだった。 シーズンの出鼻を挫いた怪我は、さらにメンタル面にも影響を及ぼした。鈴木は振り返る。 いまでこそ冷静に分析するが、記録の伸びない原因は夏を過ぎても判らなかった。そして9月初旬、鈴木はさながら迷い子の態で、オランダで開かれるIPC世界陸上選手権大会へ向かう。「まったく跳べる気がしない」戦前の予感どおり、散々な結果が日本記録保持者を待っていた。 【文・隈元大吾】⇒ 超人トップページへ ⇒ カンパラトップページへ |
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