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"ラッキーガール"の正体(前編)
照りつける9月の太陽が眩しい。雲ひとつないアテネの空は高く、どこまでも突き抜けていくかのようだった。だが、そんな澄みきった青空とは裏腹に、競技を終えた彼女の胸中では、複雑な思いが交錯していた。 「すごく気持ちよかったし、楽しめました。世界の経験豊富な選手たちのなかで競いあい、自己ベストも更新できた。でも決勝を見ていたら、じわじわと口惜しさがこみあげてきました」 佐藤真海がアテネパラリンピック出場を決めたのは2004年3月、九州で行なわれた最終選考会のことである。本番を半年後に控えたこの大会で、彼女は初めて標準記録を突破、文字どおり滑り込むかたちで走り幅跳びの代表切符を掴んだのだった。 自身を"ラッキーガール"と評する。それはなにも、ギリギリで代表に選ばれたからではない。アテネの出場を決めたとき、佐藤は競技を始めてまだ1年にも満たなかったのだ。くわえて、走ること自体に喜びを覚えていた彼女は、むしろその延長で跳んでいた節がある。もちろん「いつかは出たい」とパラリンピックに漠然と思いを馳せてはいたが、短い競技歴と始めたきっかけを考えれば、予想外の急展開に戸惑いを感じても無理はなかろう。 「まさか行けるとは思っていませんでした」佐藤は吐露する。
しかし、初めての国際大会が4年に一度の大舞台では、いかなる強心臓の持ち主でもやはり平常心を保つことは難しいだろう。彼女は短期間で日本記録(3m79cm)を更新し、「4m」という目標を掲げてアテネに挑んだが、経験不足は否めなかった。緊張が災いし、1本目の跳躍では動きが硬く、踏み切りも合わない。落ち着きを取り戻した2本目に3m93をマークし自己ベストを更新するも、目標達成を懸けた最後の跳躍では、しかし4mには届かなかった。結果、決勝に駒を進めることも叶わず、13人中9位、3m95という記録とともに競技場を後にした。 4mは超えられなかったものの、自己ベストを更新し、日本記録を打ち立てた。だが同時に、決勝に立てなかった口惜しさも胸中に同居する。冒頭のコメントは競技を終えた直後、取り巻く報道陣のまえで、口にした言葉だ。 だが、2年を経て、あらためて思うことがある。「いまパラリンピックに出てベスト8に残れなかったら、『楽しかった』なんて言えない」と苦笑しながら、彼女は振り返る。 自身の設定した目標に達せず、決勝に進めなかった忸怩たる思いは、たしかにある。だがそれ以上に、準備を尽くせなかったことが歯がゆかった。彼女のいう「口惜しさ」は、結果よりも、努力の途上で本番を迎えた過程にあったのである。 「幅跳びは走ることが大前提です。まずは体を鍛えてベースを上げたうえで、幅跳びの技術を磨かなければいけない。でもアテネパラリンピックまでのかぎられた時間では、走るよりもまず幅跳びの練習に集中せざるを得ませんでした」 「走ること」――これは佐藤にとって、幅跳びのベースであるだけではなく、特別な意味を持っているのだった。 【文・隈元大吾】⇒ 超人トップページへ ⇒ カンパラトップページへ |
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