updated 06/12/25

"ラッキーガール"の正体(中編)

「右足は残せないでしょう」医師の言葉が耳の奥で冷たく響く。我が耳を疑う現実に直面したのは、成人式を控えた大学2年の冬のことだった。「骨肉腫」の宣告である。気になりながらも放置していた足首の痛みは、命に係わる深刻な異変の警鐘だった。

 佐藤は幼いころから、運動に秀でた少女だった。「5段階評価で5が取れたのは体育だけ」と笑う。テニスで国体まで行った祖母の血を受け継いでいるのかもしれない。小学生のときに水泳で宮城県大会に出場し、中学では陸上の長距離に精を出した。父の母校でもある早稲田大学進学を志した高校時代は、特別進学コースに進み勉強に専念、一度はスポーツと決別するも、校内マラソン大会で期せずして優勝し、誘われるがままに一年間だけ陸上部で汗を流した。進学コースで運動部に入るのは異例のことだ。晴れて入学した早稲田でもチアリーディング部に入り、勉強が疎かになるほど熱中していた。「足を切らなければ余命1年余り」という宣告は、学生生活を謳歌するそんな19歳を突如として襲ったのである。

「スポーツができなくなるという事実を嘆きました」思い返し、佐藤は視線を落とす。
「足がなくなるとか死ぬこと以上に、スポーツができなくなるということに落ち込んだ。そのときに自分がどれほどスポーツが好きか、スポーツで生きてきたかが分かった」

 それゆえに、足を失うことに抵抗感は拭えなかった。だが命には代えられない。「病気を治して、絶対に大学に戻ってみせる」彼女は胆を決め、病と向き合った。

 国立がんセンターに入院してからは、抗がん剤治療によるさまざまな副作用に苦悶した。手術を終えたにもかかわらず、ないはずの足首が痛む「幻肢痛」と呼ばれる症状にも悩まされた。それでも涙をほとんど見せないでいられたのは、付き添いの看護師やおなじ病に苦しむ仲間ら周囲の支え、そして「大学復帰」という大きな目標があったからに他ならない。およそ10ヶ月の闘病生活を経て、彼女は義足とともに退院した。

 しかし、大学に戻った佐藤が本来の自分を取り戻すのは、容易いことではなかった。引き摺る右足を気にし、服装も自然と目立たない色合いを選んでしまう。おなじ学年の友人たちが軒並み就職活動を始めていたことも、焦りを加速させた。自分だけが取り残されているという感覚に胸が締めつけられるのだ。そしてなにより、心から笑っていなかった。

「退院してからのほうが泣くことが多くなりました」苦い時期の想い出を搾り出す。
「家に閉じこもりがちになり、1ヶ月ぐらい笑えなかった。そんな自分がすごく厭でした。はやく抜け出したかった」

 暗澹たる精神状態から抜け出すきっかけとなったのが、右足とともに一度は失くしたスポーツだった。「がむしゃらに頑張るのが、それまでの自分だったはず」俯いてばかりいた顔を上げ、障害者スポーツセンターの存在を自ら調べ、さっそく足を運んだ。水泳やバレーボールなどさまざまなスポーツで体を動かしながら、彼女は次第に明るさを取り戻していく。なかでも義肢装具士の臼井二美男氏との出会いは大きかった。彼の手を借り、佐藤は退院後初めて、「走った」のである。

「走るといっても、もちろん歩くのと変わらないぐらいのスピードですよ。フォームも不恰好だったと思う。でも施設でやったいろんなスポーツのなかで一番、楽しかったんです。水泳のように義足を外して泳ぐより、たとえ義足でも両足で地面を蹴ることのほうが、生きている実感があった。いままでの自分を取り戻せた気がしました」

 硬い殻を突き破った瞬間だった。走ることによって彼女はようやく、再生したのである。

≪後編へ続く≫

【文・隈元大吾


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