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フィニッシュラインを過ぎた東海将彦は、ストックを持つ右腕を大きく高々とセストリエールの青空に向けて突き上げた。「最高の瞬間でした。4年間、この舞台で結果を残すことだけを考えてきた。夢のようです」銀メダル獲得に、持ち前の清々しい笑顔が雪の上で弾ける。そしてその笑顔は、メダルを首にかけて初めて歓喜の涙に変わった。
4年に一度の大舞台を目前に控えたある日、笑顔を浮かべながら東海が口にしていた言葉が忘れられない。
「楽しみです。一度はオリンピックの夢が絶たれたけど、またスキーで世界を目指せるところまで来た。怪我してよかったかもしれません」
東海はもともとアメリカにスキー留学をしていた経歴を持つ。高校3年の4月に渡米すると、以来5年間にわたりスキーの腕を磨いた。高校時代には州の大会で優勝を果たし、帰国直前の22歳のときには全米選手権にも出場している。すべてはオリンピックの夢が突き動かしていた。だが世界の壁はさらに高い。現実は厳しかった。夢破れて帰国すると、コーチ業を営む傍ら国体や全日本選手権で雪に触れた。
怪我を負ったのは2001年のことだ。このときも雪の上だった。大学のスキー部を教えていた彼は、長野県のスキー場を滑り降りながら、目の前に5つほど連なるこぶを見止める。「ジャンプして飛び越えよう」加速度を増してこぶに進入すると、彼のからだは前ではなく上に放り出された。到達した高さは、ちょうど近くを行き来していたリフトのそれとほとんど変らなかったという。そのまま尾てい骨から落下し、地面に叩きつけられた瞬間、腰から下の感覚を失った。診断は脊髄損傷だった。
3ヶ月間の入院のあいだ、ベッドの上で考えるのはスキーのことばかりだった。「早くスキーをやりたい」思いの強さは東海をすぐに雪の斜面へと連れ出す。怪我した年の秋にはもう、屋内スキー場でリハビリを兼ねて滑り始めていた。「最初に滑ったときは愕然としました」両脚は変らずに残っているが、イメージどおりに力を伝えられない。初めて滑るかのようだった。だが懸命にトレーニングを重ね、翌年2月に行なわれたジャパンパラリンピックで障害者大会のデビューを飾ると圧勝した。
パラリンピックへの思いを強めるのはこの頃からだ。「勝てて楽しかった。3月のソルトレークシティ大会には間に合わないので、4年後のトリノを目指すことに決めたんです」以来、東海は世界選手権やW杯に参戦して優勝を果たすなど、その名を世界に知らしめるようになったのである。
この日行なわれた大回転は、2本を滑り合計タイムを競う。1本目、ライバルたちの先陣を切った東海は、スタート台に立つや「ワクワクした」という。
「前にだれも滑る選手がいなくて、まるで自分のための舞台が整ったように感じました。早く滑りたかった」
アメリカ留学時代から培った豊富な経験ゆえか、いかに舞台が大きくとも彼は緊張を知らない。1本目を3位で通過すると、2本目ではドイツの盟友ゲルト・シェーンフェルダーをも抑えて2位に食い込んだ。合計タイムではライバルに一歩及ばなかったものの、堂々の銀メダルだった。
シェーンフェルダーはこの日、自身がもっとも得意とする大回転で金メダルを獲得した。ライバルが得意種目を順当に制したならば、東海もまた残る得意種目でふたたび頂点を目指す。
「回転で有終の美を飾りたい。金を目指して攻めます」アルペンスキーの締めくくりとなる男子回転、東海の出場する立位は2日後に控えている。目に映る景色は喜びに滲んでも、つぎに目指すメダルだけはしっかりと見定めていた。 |