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鈴木猛史は回転の一本目を滑り終えると、アルペンチームの仲間に交じりつつ、不意に俯き自身の滑りを振り返っていた。一本目のランクは17位、トップから8秒以上差をつけられている。細かくテクニカルなポールセットは、技術で勝負する彼にとって好ましいラインのはずだった。だが躰が思うように動かない。自身の滑りにも迷いが生じていた。肉体も精神的にも靄のかかったような状態でセストリエールに臨んだ17歳に、世界の洗礼は手厳しかった。「まだ勝つには早すぎるのかもしれない」そんな思いが頭を過ぎった。
小学2年の春、家の近所のバス停でダンプカーに轢かれ、両脚を失った。以来、マラソンや水泳などを経て、初めて自分に合うと思えたスポーツが小3の頃に出会ったチェアスキーだった。
「初めてゲレンデを滑ったときに、『足がなくても滑れるんだ』って思いました。また友だちと一緒に行けるのも楽しい。だから今も続けているんです」
パラリンピックへの思いを強めるのも、チェアスキーを始めたこの頃と重なっている。1998年の長野大会で金メダルを獲得した志鷹昌浩から刺激を受けた。まだ9歳の少年は、「僕も金メダルを獲りたい」と憧れを抱くようになったという。そして後日、期せずして小学校に講演に訪れた憧れの金メダリストに直接、質問をぶつけた。急斜面は恐くないですか、と。少年の問いに対する志鷹のこたえは簡潔だった。「恐いならやめろ」。
鈴木は思い返す。「その台詞が口惜しくて、恐怖を克服しようと決めた。志鷹さんがいなければ、いまの自分はなかった」
その後、真剣に競技に打ち込むようになった彼は、地元福島で友人とともに自由に滑るなかで技術を磨き、次第に頭角を現していく。とくに高校に入学してからは台頭著しい。2004年にオーストリアで行なわれた世界選手権では、回転の3位を筆頭に滑降、大回転、スーパー大回転で入賞を果たす。また2005年には、おなじくオーストリアで開催されたW杯において、回転で1位を獲った。日本アルペンスキーチームの伴一彦コーチも、「ミスしてもレースを終らせずにフィニッシュまで繋いでくるテクニックを持っている。天才的」と舌を巻く。若くして手に入れた類稀な技術を駆使して、鈴木はこれまで世界と対峙してきたのだった。
初めてのパラリンピックでも、狙うはテクニックを要する回転の表彰台だった。大会に入る前から、「やはり回転でメダルを獲りたいので、大会序盤の種目で怪我をしないように気をつけます。あくまで自然体で、自分の滑りをしたい」と、最終日に行なわれる得意種目につねに目を向けていた。
しかしトリノに来てから鈴木のコンディションは思わしくなかった。直前まで行なわれたW杯転戦の影響もあったのだろう、体調を崩し、14日のスーパー大回転も欠場していた。練習を控えセストリエールの雪に慣れることもままならず、目標としてきた回転の日を迎えたのである。あらゆるコンディションが整っていなかった。
一本目を不本意な滑りで終えた鈴木は、二本目を迎え、「自分の滑りを信じる」ことに意識を集中した。メンタルを立て直して臨んだ最後のアタックでは7位に食い込み、二本あわせて12位という結果を残し、初めてのパラリンピックを終えた。
「二本目は自分の滑りができたと思います。でもこれからもっとレベルアップしていかないといけない」フィニッシュラインを越えた鈴木に、満足な笑顔は見当たらなかった。自身を責めているであろう彼を、伴コーチが擁護する。「体調を崩して3日間、猛史は板に乗れなかった。本来の力を20%も出せなかったと思う。でも彼はまだ若く、未来のある選手。今回はいいクスリだと思えばいい」
現在17歳の彼は、バンクーバーを21歳で迎える。「こういう口惜しい思いを味わって、ひとは強くなっていく」鈴木がセストリエールに最後に残した言葉は、4年後に向けてふたたびスタートラインに立った自身に捧げるエールだった。
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