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終わりなき集大成(前編) 2000年のシドニーパラリンピックを終えたのち、ヘッドコーチとして車椅子バスケットボール男子日本代表を率いた小川智樹。今年3月に勇退した指揮官の6年間をひも解く。
第3クオーターを終えた時点で、スコアは16点差にまで達していた。対するイタリア代表とは8日前にも予選ラウンドでぶつかっており、「53−56」で敗れている。接戦とはいえ一度は屈したヨーロッパの難敵を相手に、20点ちかいビハインド、ましてや残された時間がわずか10分間では、この7−8位決定戦も敗色濃厚と言わざるを得なかった。 そもそも車椅子バスケットボール男子日本代表チームにとって、「7位」というポジションは近年の国際大会における大きな壁だった。1992年のバルセロナパラリンピックを皮切りに、2000年のシドニーパラリンピックまで、8位と9位のあいだをさまよい続けた。2001年4月に小川智樹がヘッドコーチに就任してからも、2002年の北九州ゴールドカップ(世界車椅子バスケットボール選手権大会)、2004年のアテネパラリンピックと、2年周期で訪れる世界の桧舞台での成績は、いずれも8位である。「8枠」という決勝ラウンドのレギュレーションをかんがみれば、この順位の意味するところは容易に想像がつくだろう。つまり日本は予選を突破こそすれ、決勝では一度も勝つことなく帰国の途についてきたわけだ。転じて、小川にとっては、「決勝ラウンドでの一勝」が一大目標だった。しかし、3度目の挑戦となる2006年7月のオランダゴールドカップ(世界車椅子バスケットボール選手権大会)においても、悲願はイタリアによって砕かれようとしていたのである。 劣勢のまま迎えた第4クオーター、2分が経過しても両者の差は縮まらない。だが一方で、日本の労を惜しまぬディフェンスが、徐々に敵を疲弊させていったのは確かだった。攻撃を終えた直後、切り替え素早く守備に移り、カウンターを防ぐ。イタリアが自陣まで攻め入れば、ボールへのプレスを徹底し、と同時に全員が体を張ってゴール下への侵入を許さない。「ペイント」と呼ばれる得点にもっとも近いエリアを塞がれた相手は、やむなくアウトサイドへ展開するが、そこでも厳しいマンマークが待っている。規定の24秒以内にシュートを撃つことすらままならず、イタリアは攻め手を失いつつあった。 このとき日本が披露した守備体系は、指揮官が就任当初から一貫してチームに求め続けてきたスタイルだった。アシスタントコーチとして2000年のシドニーパラリンピックを経験した小川は、ヘッドコーチに昇格した翌年、『日本が目指す車椅子バスケットボール』という指針を示している。そのなかで彼が説いたのは2点、それは「ひととボールが有機的に動くランニングバスケの徹底」と「闘うメンタリティの重要性」だった。 小川の目指した「ランニングバスケ」について、もう少し触れておこう。文字通り"走るバスケ"ではあるが無論、ただ闇雲に走るわけではない。パスを回しながらフリーランを続ける先には、相手のポジションを動かす狙いがある。つまり個の能力に局面の打開を委ねるのではなく、組織的に動いて相手のギャップを導き出し、ノーマークのシューターをつくりだすという考えだ。体格に恵まれる海外の列強にくらべ高さで劣る日本にとって、平面をスピーディーに動き回るこの組織的バスケットが、攻守の切り替えの速さと併せて、小川ジャパンの戦術のひとつの柱となったのである。 しかし、戦術を実際に体現するのは容易ではない。「北九州ではまったく機能しなかった」就任一年目の大会を思い返し、小川は苦笑いを隠さなかった。 コート上のパフォーマンスと同様に発展途上にあったのが、試合に臨む姿勢、すなわちメンタリティである。背景には練習環境の問題がある。かぎられた予算では活動のほとんどを国内で費やすことになり、必然、海外チームとの練習試合も遠のいてしまう。そんな現実を思えば、公式戦が経験の場にすり替わるのは仕方なかったろう。 欠けていた「闘うメンタリティ」を覚醒させるうえで、開催国として臨んだ北九州ゴールドカップは、「起点となる大会だった」と、小川はいう。 かくして小川率いる日本代表は、北九州で見つめなおした課題を胸に2年後を目指す。だがアテネでは、また新たな壁が彼らを待ち受けていたのだった。時計の針は、オランダから2年前に遡る。 【文・隈元大吾】⇒ パラコラムトップページへ ⇒ カンパラトップページへ |
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