カンパラプレス

超人烈伝

超人烈伝

「試練の日々を乗り越え、挑むリオ」~水泳・木村敬一~

リオで金メダルを目指す木村敬一(撮影:越智貴雄)

リオで金メダルを目指す木村敬一(撮影:越智貴雄)

 昨年7月、英国・グラスゴーで行われた世界選手権、100メートル平泳ぎ、100メートルバタフライで2冠を達成し、誰よりも早く内定を決めたのが木村敬一だ。その木村にとって、リオデジャネイロパラリンピックは、「出場したい」と思っていた北京、「メダルを取りたい」と思っていたロンドンと、過去の2大会とは違う意味合いがある。
「金メダルを取らなければならないと思っています」
 それは、自分自身に言い聞かせた必死の「覚悟」のように感じられた。

視覚に障害がある選手はタッピング(壁を知らせる為の合図)が行われる(撮影:越智貴雄)

視覚に障害がある選手はタッピング(壁を知らせる為の合図)が行われる(撮影:越智貴雄)

無欲のメダル獲得後、芽生えた金への意欲

 4年前、木村にとって2度目のパラリンピックとなった2012年のロンドン大会は、厳しい幕開けとなった。大会3日目の9月1日、50メートル自由形。木村にとっては「メダルを取るならこれしかない」と、かけていた種目だった。ところが、その思いが強すぎたのか、「いつも通り」の泳ぎはできず、結果は5位。

「これで、もう終わった……」。
 北京大会で叶わず、「どうしても取りたい」と思い続けてきたメダルは、またも自分には届かなかった――。
「この4年間は、いったい何だったんだ……」
 心は完全に折れてしまった。

 ところが、その2日後、木村は100メートル平泳ぎで、堂々の銀メダルを獲得した。果たして、どう気持ちを切り替えたのか。
「もうメダルは無理だと思っていましたから、いい意味で開き直れた。それが大きかったですね。正直、次のレースでも完全には気持ちを切り替えられてはいませんでしたが、それでも水中に入ったら自然と体が動きました。勝ち負けのことを考えずに泳げたのが、かえって良かったのだと思います」

 結局、その後100メートルバタフライでも3位に入り、開幕前、「ひとつでもいい」と思っていたメダルを2つも獲得することができた。当時はその結果に、十分満足していた。しかし、彼の気もちはそこで止まることはなかった。

 帰国後、当時大学4年生だった木村は、教育実習、卒業論文などに追われ、また友人との卒業旅行を楽しむなど、最後の大学生活を満喫した。だが、その間にも常に頭には4年後のリオデジャネイロ大会のことがあった。金メダルへの思いが、沸々とわいてきていたのだ。

リオで金メダルを狙う木村(撮影:越智貴雄)

リオで金メダルを狙う木村(撮影:越智貴雄)

ライバルとの闘いに向けた試練

 リオで金メダルを狙う木村にとって、最大のライバルと目されているのが、ブラッドリー・スナイダー(米国)だ。昨年のパンパシフィック・パラ水泳大会(米国)、100メートルバタフライではタッチの差で負けている相手だ。

 そのスナイダーにリオで勝つために、木村は水泳漬けの毎日を送ってきた。練習は週に6日。そのうち2日は1日2回練習があり、合わせて週に10回、水中練習、陸上トレーニング、ウエイトトレーニングを行ってきた。週末には大会や講演などが入ることも少なくなく、完全休養日は、月に1、2回ほどしかない。その休日は、もっぱら疲労をとるために使った。

 そんな日々を、木村は「これまでで一番の試練」だと感じてきた。
「今ほど辛いことはないはずだ、そう自分に言い聞かせています」
 そこまでして、なぜ泳ごうとするのか――。
 この質問に、木村はこう答えた。
「辛いと思うことはありますけど、それでもパラリンピックで勝つという目標はまったくブレることはないんです。だから挑戦し続けられているのだと思います」

「試練」を乗り越えた木村はリオの地で、どんな泳ぎを見せてくれるのか。まだ見ぬ世界の頂点に向けた挑戦。いよいよその本番の時を迎える。

木村敬一(きむら・けいいち)

1990年9月11日、滋賀県生まれ。東京ガス所属。2歳の時、増殖性硝子体網膜症を患い、全盲となる。水泳を始めたのは、小学4年の時。中学3年時には世界ユース選手権大会に出場し、50メートル自由形で優勝した。高校3年時に出場した2008年北京パラリンピックでは100メートル平泳ぎで5位、100メートルバタフライで6位に入賞。大学4年時に出場した2012年ロンドンパラリンピックでは、100メートル平泳ぎで銀メダル、100メートルバタフライで銅メダルを獲得した。2013年、東京ガスに入社。2015年7月の世界選手権で2冠を達成し、リオデジャネイロパラリンピック出場の内定第1号となる。

(文/斎藤寿子)

page top