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超人烈伝

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「4年前はイメージできなかった代表の自分」~車椅子バスケ・藤澤潔~

藤澤は高校生の時から、ずっと日本代表入りを目標としてきた(撮影:越智貴雄)

藤澤は高校生の時から、ずっと日本代表入りを目標としてきた(撮影:越智貴雄)

 高校生の時から、ずっと目標としてきた日本代表。それを現実のものとし、藤澤潔は今、世界最高峰の舞台に立とうとしている。
「あの時の決断と努力があったからこそ」
 藤澤は今、そう思っている。

先輩からの激励で気づかされた現実

 2012年8月、宮城県角田市ではロンドンパラリンピックに向けての最終調整として、代表合宿が行われていた。その最終日、代表の練習試合の相手として参加していた若手選手に、当時代表最年長だった京谷和幸(現車椅子バスケ男子日本代表アシスタントコーチ)はこう言った。
「次はオマエたちの番だからな」
 それはロンドンを競技人生の集大成にしようとしていた京谷からの次世代に向けたメッセージだった。藤澤はその一人だった。

 しかし、藤澤には4年後をイメージすることができなかった。
「京谷さんの言葉を聞いて、逆に気づかされたんです。あぁ、このままでは絶対に自分には回ってこないなって」

 当時、地元の長野県に住んでいた藤澤は、一般企業に勤めながら県内の車椅子バスケットボールチームの練習に参加していた。しかし、残業も少なくなく、思うように練習時間が取れないことが悩みの種だった。もちろん、忙しいことを言い訳にするつもりはなかった。なんとかやりくりをして練習時間を確保できるように努力はしたものの、やはり現実は厳しかった。加えて関東とは異なり、練習試合の相手を探すのも一苦労で、なかなか強度の高いバスケを経験することも難しかった。

「これは思い切って環境を変えなければ、また同じことの繰り返しになる」
 そう思った藤澤は、関東の強豪チームに移籍しようと考えた。だが、当時既に家庭を持ち、一家の主となっていた藤澤にとって、決して容易なことではなかったはずだ。移籍先だけでなく、同時に安定した収入を得られる転職先も見つけなければならなかったからだ。

 しかし、藤澤の決意が揺らぐことは決してなかった。その理由はただ一つ。代表入りし、パラリンピックに出場したい、という思いである。そんな藤澤に救いの手を差し出してくれたのが、現在チームメイトの永田裕幸だった。

「どこのチームに移籍しようかと考えた時、自分と同じ世代の若いメンバーが多く、勢いのある埼玉ライオンズが一番いいなと思ったんです。それでキャプテンの永田さんに相談したら、『うちにおいでよ』と言ってくれました。しかも、永田さんが勤務する会社にも話をしてくれて、僕もそこで働けるようにしてくれたんです」

リオでは必ずチームの勝利に貢献するプレーをしたいと語る藤澤(撮影:越智貴雄)

リオでは必ずチームの勝利に貢献するプレーをしたいと語る藤澤(撮影:越智貴雄)

「リオでこそ」の思い

 これですべてが整い、藤澤は意気揚々と関東へと飛び込んだ。だが、チームでレギュラーを掴むことはなかなかできなかった。さらに移籍から1年半、藤澤は一度も代表選考合宿に招集されなかった。

 しかし、それでも代表への気持ちは少しも揺らぐことはなかった。それどころか、「どうすればうまくなれるのか」と、さらに練習に力を注ぐようになったという。

「あの時は、なかなかうまくいかなくて、正直焦る気持ちもあったんです。でも、移籍したからといってすぐにうまくいくわけじゃないことはわかっていたので、とにかく練習しかないと思ってやっていました。気持ちを腐らせずに、我慢しながら努力し続けた、あの1年半は、僕を成長させてくれた大事な時間だったと思います」

 2013年、及川晋平ヘッドコーチが新指揮官に就任すると、藤澤は選考合宿に呼ばれるようになった。そして1年後の2014年11月、北九州チャンピオンズカップで初めて12人のメンバー入りを果たした。当時は若手を中心としたメンバー構成で、フルメンバーではなかったものの、それでも藤澤にとっては大きなチャンスだったことは間違いない。実際、翌2015年、藤澤は選考合宿や遠征メンバーの常連となり、同年10月に行われたリオパラリンピックの予選、「三菱電機2015IWBFアジアオセアニアチャンピオンシップ千葉」(AOZ)で代表12人入りを果たしたのだ。

 そのAOZでは、残り1枚となったリオへの切符をかけて行われた3位決定戦で韓国を下し、日本は11大会連続出場を決めた。勝利の合図となった試合終了のブザーが鳴った瞬間、ダブルエースであり、それぞれキャプテン、副キャプテンを務める藤本怜央と香西宏昭は喜びを爆発させ、抱き合いながら涙を流した。その姿は、そこまでの道のりがいかに苦難の連続だったかを物語っていた。

 だが、彼は泣かなかった。自分には泣く資格がないと思ったのだという。
「リオが決まった瞬間は、もちろん嬉しかったですし、感動して少し涙が出かかりました。でも、2人のように思い切り泣くところまではいかなかったんです。というのも、僕は号泣できるほど、チームには貢献することができなかった。だから2人の姿を見て、『自分はあそこまでのレベルには到達していない』という思いの方が方が強かったんです」

 だからこそ、今は思う。リオでは必ずチームの勝利に貢献するプレーをすると――。藤澤にとって、初めてのパラリンピックがもうすぐ幕を開ける。

<藤澤潔(ふじさわ・きよし)>

1986年7月26日、長野県生まれ。5歳の時、跳び箱から落ちて脊髄を損傷し、車椅子の生活となる。高校1年の時、本格的に車椅子バスケットボールを始め、2005年には世界ジュニア選手権大会に出場したことをきっかけに、パラリンピックを目指し始める。2012年、埼玉ライオンズに移籍。2014年、北九州チャンピオンズカップに出場し、2015年10月にはリオデジャネイロパラリンピック予選であるアジアオセアニアチャンピオンシップに出場。リオ行きを決めた3位決定戦では、得意のミドルシュートでチームを勢いづけた。

(文/斎藤寿子)

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