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超人烈伝

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「リオで前人未到のパラ3連覇へ」 ~車いすテニス・国枝慎吾~

史上初となるパラリンピックのシングルス3連覇に挑む国枝(撮影:越智貴雄)

史上初となるパラリンピックのシングルス3連覇に挑む国枝(撮影:越智貴雄)

 車いすテニスの国枝慎吾が史上初となるパラリンピックのシングルス3連覇に挑む。
 現地時間8月31日、決戦の地リオデジャネイロに降り立った国枝は空港到着直後、日本選手団を出迎えた大会マスコットとツーショット写真を撮るなどリラックスした様子を見せた。だが、その心中は穏やかではなかったはずだ。17歳で世界ツアーを回り始め、32歳になった今日に至るまで幾多の試練を乗り越えてきた国枝だが、2012年ロンドンパラリンピック以降の4年間はとりわけ厳しいものだったといえる。
 中でも今年4月に受けた内視鏡による右肘のクリーニング手術は、わずか4カ月後に控えたリオパラリンピックに暗い影を落とした。幸い手術は成功し、本人も「ロンドンパラリンピックイヤーの2月に右肘を手術した時ほど状態はワルくない」としたが、復帰戦となった5月下旬の世界国別選手権では、打球感や試合感が十分には戻らずショットの精度を欠いて、最大のライバルであるフランスのステファン・ウデに決勝でストレート負け。エースとして日本チームを優勝に導くことはできなかった。
 続く6月の全仏オープンはダブルスで優勝したものの、シングルスは準決勝敗退。そして7月の全英オープンは欠場という苦渋の決断に至った。
 しかし8月末、リオ入り直前の時差調整を兼ねたカナダ・トロントの大会で久々にシングルス優勝。調整が順調なことを印象づけ、リオパラリンピックへ弾みをつけた。

パラリンピックは特別な大会

初めてパラリンピックに出場したアテネ大会(04年)、ダブルスで斎田悟司とのペアで金メダルに輝いた(撮影:越智貴雄)

初めてパラリンピックに出場したアテネ大会(04年)、ダブルスで斎田悟司とのペアで金メダルに輝いた(撮影:越智貴雄)

 年間グランドスラムを5度達成している国枝でも、4年に1回のパラリンピックは特別だという。初めてパラリンピックに出場したのは2004年アテネ大会。まだ20歳だった国枝は一回り年上の斎田悟司とペアを組み、金メダルを手にした。二人は2008年北京でも銅メダルを獲得し、国枝はシングルで念願の金メダル。続くロンドンでもシングルスを制し史上初の大会連覇を達成した。

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 実に華々しいパラリンピックの戦績。だが、その一方では葛藤の末の大きな決断があった。2010年4月、日本の車いすテニスプレーヤーでは初となるプロ転向を果たしたのだ。この挑戦は、当時メディアでも大きく報じられ話題となったが、背景には車いすテニス界の現状を変えたいという国枝の強い思いがあった。きっかけは斎田の引退表明だった。子どもの頃から憧れ、目標にしてきた斎田が活動資金不足のため競技を続けられなくなったのだ。
「世界の第一線で活躍できる選手が、理不尽な理由で競技をやめなければならない現状を、自分が矢面に立って活躍することで変えたい。僕が車いすテニスの環境を変えます」
 そう宣言した国枝の言葉はどこか怒りにも似た、宣戦布告のように聞こえた。これを境にシングルス107連勝の偉業や、2014年のグランドスラムおよびシーズン最終戦の世界シングルスマスターズのタイトル制覇など、数々の金字塔を打ち立てた国枝は名実ともに世界のトップに君臨し、車いすテニス界を席巻した。

挑戦者として臨む元王者の意地

 時は流れ、今、国枝がいるリオデジャネイロには、一時は引退に追い込まれながらも、国枝の働きかけもあって再び競技に戻った斎田の姿がある。さらに国枝の背中を追って車いすテニスを始めた若い世代も日本代表としてパラリンピックの舞台に立つ。自身の進化もさることながら、国枝が日本の車いすテニス界にもたらした功績はとてつもなく大きい。

世界ランキング1位のウデ(撮影:越智貴雄)

世界ランキング1位のウデ(撮影:越智貴雄)

 また、「打倒国枝」を掲げ実力を伸ばしてきた海外の選手たちもリオに集結しており、世界ランキング1位のウデほか、イギリスの強豪ゴードン・リードやベルギーのヨアキム・ジェラルド、アルゼンチンのグスタボ・フェルナンデスら勢いのある若手が立ちはだかる。
 右肘に爆弾を抱えた国枝は、まさに満身創痍。世界ランキングも7位まで落としており、今回のリオは挑戦者の立場で臨む。「プレッシャーがあればあるほど、それを乗り越えた喜びは大きい。リオでもそれを味わいたい」と話す国枝は、また一つ大きな壁を乗り越えることができるだろうか。元王者の意地を懸けた不屈の戦いが始まる。

(文/高樹ミナ)

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