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パラコラム

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アンプティサッカーの古城「どう上手くなるかを考えるのが楽しい」

 彼にとって「サッカー」は、人生の一部となっている。どんなかたちであれ、ボールを蹴りながら、フィールドを走り回り、相手との駆け引きを楽しむ。それは、あの4年に一度の世界最高峰の大会「パラリンピック」よりも、彼には魅力を感じる「舞台」だ。そんんなサッカーに魅せられた人生を送る古城暁博とは――。

2000年のシドニーパラリンピックに出場した古城暁博(左)(撮影:越智貴雄)

2000年のシドニーパラリンピックに出場した古城暁博(左)(撮影:越智貴雄)

「まさか」のパラ出場

 5歳の時に交通事故で右ひざから下を切断した古城が、義足を履きながら健常者に交じってサッカーを始めたのは、小学3年の時だった。当時は体格に恵まれていたことから、スピードもパワーも、まったくひけをとらず、義足がハンデとはならなかった。古城は「プロになる」という夢を抱きながらボールを蹴る毎日を送っていた。

 しかし中学、高校と上がるにつれて、徐々に同級生のスピードについていけないシーンが多くなっていった。

「どうしても、義足側の反応が遅れてしまうんです。頭と体が一致しない感じ。自分で走っていても、右足の太腿までは頭で描いた通りに動いているのに、その後、膝から下がついてこない。そうなると、当然、他の選手たちのスピードについていくことはできなくなっていきました」

 それでも、古城の中にサッカーをやめるという選択肢はなかった。

 そんな中、高校1年の時に突如舞い降りてきたのが「陸上選手」としての道だった。きっかけは、祖父の兄弟が東京都の障がい者スポーツセンターで勤務していたことから知り合った、現パラノルディックスキー日本代表の荒井秀樹監督との出会いだった。当初、古城は荒井監督の指導の下、クロスカントリーを始める予定だった。しかし、当時は夏のシーズンだったこともあり、トレーニングの一環として始めたのが陸上だった。

 高校ではサッカー部に所属していた古城は、サッカー部の練習を終えた後に陸上競技場へと移動し、そこで荒井監督や、荒井監督に紹介された陸上コーチの指導の下で、トレーニングをするという、「二足の草鞋」状態の生活が始まった。

 その後、小学生の時から義足を作ってくれている義肢装具士に誘われたのをきっかけに、パラ陸上の大会に出場するようになり、1年後には100メートルで日本新記録(当時)をマークした。それを機に、古城は日本を代表する義足ランナーとなり、翌2000年、シドニーパラリンピックに出場した。それは本人にとっても、「まさか」の出来事だった。

練習に励む古城(撮影:越智貴雄)

練習に励む古城(撮影:越智貴雄)

忘れられなかったサッカーの魅力

 パラリンピック本番を迎えても、古城には正直、あまり実感はなかった。他の選手が、4年に一度の大舞台に全神経を傾ける中、古城にはほとんど緊張感はなく、逆にリラックスしていた。実は、そこにはある理由があった。

 古城は陸上をやりながらも、彼の中での生活の中心は、変わらずサッカーであり、当然サッカー部の活動は続けていた。しかし、それが災いし、パラリンピック開幕の約1カ月前、サッカーの練習で左足を疲労骨折し、パラリンピックに向けては十分な練習を積むことができなかったのだ。

「こんな状態で緊張したって仕方ない、と思ったんです。それに、もともと出られるなんて思っていなかったわけですから、どうせならレースを楽しもうと」
 古城は、すっかり開き直っていた。

 しかし、それがかえって気持ちを落ち着かせ、走りにもプラスへと転じた。古城はプレッシャーで硬くなることもなく、伸び伸びと走り、100メートルでは8位入賞を果たした。

 それでも、後に残ったのは意外にも「悔しさ」だった。このまま陸上を続けて、再びパラリンピックに挑戦しようと、大学では陸上部に入る予定でいた。ところが、大学入学後、改めて陸上とサッカーを天秤にかけた際、自分が本当にやりたいと思ったのは、やはりサッカーだと思った。

「可能性で言えば、パラ陸上の方だったと思うんです。健常者の中でやるサッカーは、やっぱり限界がありますからね。それでも、相手との駆け引きの中で勝てる瞬間というのがあって、自分の思い通りの動きがなかなかできない中でも、時々できたりする。その時の感触が何とも言えない。それがどうしても忘れられなくて、やっぱりサッカーを取ってしまいました」

 追い求める理想が遠ければ遠いほど、それが実現できた時の感動は大きい。パラリンピックのメダルよりも、その感動の方が、古城には重要だった。

恩師からのありがたい言葉

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 そんな古城がアンプティサッカーに出合ったのは、大学を卒業して8年後の2012年、29歳の時だった。アンプティサッカーについては、動画で見たことはあったが、詳しくは知らなかった。知人の義肢装具士から誘われるがままに、実際やってみると、想像以上に難しかった。

「アンプティサッカーがどういうものか、全く想像することができなかったのですが、それでも両脚でサッカーをやってきたんだから、少しくらいはできるだろうと思っていました。そしたら、全く何もできなかったんです」
 しかし、それがかえって、古城の興味を引いた。「うまくなりたい」。心からそう思った。それは、小学生でサッカーを始めた時と同じ気持ちだった。

 そして、もうひとつ理由があった。
「当時、僕は趣味程度にフットサルをしていたのですが、シドニーパラリンピックに一緒に出た選手は、みんなまだ第一線で頑張っていました。それで、自分もまた勝負の世界でやってみたいなという気持ちがあったんです」

 両脚を使って行う健常のサッカーとは異なり、アンプティサッカーではクラッチ(杖)をつきながら、片脚でボールコントロールしなければならない。そのため、ターンひとつとっても、なかなか思うようにはいかない難しさがある。しかしその反面、これまでやってきたサッカーを応用できる点も多々あると感じている。

「自分がやってきたサッカーを、どう活かしてうまくなるか」
 それを考えるのが楽しく、そしてまだまだ可能性を感じるところに、アンプティサッカーの面白さがあるのだという。

 古城がそう考えるようになった背景には、高校時代のサッカー部の監督の存在がある。入部直後、なかなか他の部員たちについていくことができず、悩んでいた古城に、監督はこう言った。
「(義足では)普通にやっても他の選手に勝てないんだから、どうすれば勝てるようになるか、人よりも何倍も考えなければいけないぞ」
 厳しい言葉ではあったが、古城には何よりありがたい指南だった。

「それ以降、人をよく見るようになりましたし、自分の強みが何のか、それを活かすにはどうすればいいのかを考えるようになりました。そしたら、サッカーがさらに面白く感じられるようになったんです。それはアンプティーサッカーを始めても同じでした」

 2014年にはメキシコで行われたW杯に初めて日本代表として出場した。過去2大会では未勝利だった日本は、予選を3勝1敗と首位で通過し、初めて決勝トーナメントに進出。古城も主力として活躍し、チームに大きく貢献した。

 今年で33歳となった古城だが、アンプティサッカー歴は4年と浅い。それだけに、自らの可能性をまだまだ感じている。アンプティサッカーの本当の面白さを感じるのは、これからなのかもしれない。

<古城暁博(こじょう・あきひろ)>
1983年1月10日、沖縄県生まれ。5歳の時に交通事故で右足を切断。小学3年から義足で健常者に交じってサッカーを始め、中学、高校、大学とサッカー部に所属した。高校1年の時にトレーニングの一環として陸上を始め、3年時にはシドニーパラリンピックに100メートル、200メートルで出場。100メートルでは8位入賞を果たす。しかし、その後はサッカーに戻り、大学卒業後は趣味としてフットサルを楽しんでいた。2013年、義肢装具士の勧めでアンプティサッカーを始め、翌2014年には日本代表に選出され、W杯メキシコ大会に出場。初の決勝トーナメント進出に貢献した。AFC BumbleBee千葉に所属。

(文・斎藤寿子)

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