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パラコラム

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「障害者はスポーツをしなければならない」金メダル15個のレジェンド、ハインツ・フライさんの言葉

パラプレジックセンター正面玄関(撮影:越智貴雄)

 スイスの首都チューリッヒから電車で約1時間20分。同国中央部に位置するルツェルン州のノットウィル駅を降りると、放牧された家畜の匂いが、穏やかな風に乗って漂ってきた。



 駅を降り、アルプスの山々を水源とするゼンパハ湖に沿った道を歩いていると、「メェ~」という山羊の鳴き声が響いてくる。牛はムシャムシャと牧草を食んでいる。地元の人は冗談まじりに「ここは人間の数より家畜の方が多いんだよ」と言う。



 そんなのどかな風景を700メートルほど歩くと、巨大な建物の集まりが現れた。事故や病気などで下半身まひの障害を負った人のための病院「パラプレジックセンター」だ。



 敷地に入ると「えっ、ここが病院なの!?」と驚かされる。入り口のテラスには、車いすの人たちがビールや紅茶を片手に談笑している。そばにはオブジェが飾られていて、美術館のようでもある。



 この病院には、パラプレジック(下半身まひ)の専門医が常駐すると同時にリハビリ施設も併設されている。さらには、パラリンピックで世界を舞台に活躍するトップ・アスリートのためのトレーニング室や陸上トラックもある。設備は国際大会の開催基準をクリアできるもので、宿泊施設も充実している。事故で足の機能を失った患者が、治療から社会復帰まで一つの場所で完結できるように設計されているのだ。

パラスポーツ界のレジェンド、ハインツ・フライさん(撮影:越智貴雄)

 規模の大きさに驚いていると、「ハロー」と声を出しながら、車いすをこいで一人の男性が颯爽とやってきた。パラスポーツの世界で「レジェンド」と呼ばれるハインツ・フライ選手だ。20歳の時に山岳事故で下半身まひになったが、車いす競技を始めて人生が変わった。

 パラリンピックでは1984年から夏冬合わせて16大会に出場。陸上やノルディックスキーなど、金メダルだけで15個を獲得している。21年の東京大会では、自転車ロードレースで銀メダルに輝いた。60歳を超えての快挙で、メダルの総獲得数を34に伸ばした。そんなフライさんの競技人生は、トレーニング拠点であり、現在は職員としても勤務しているパラプレジックセンターに支えられてきた。

 フライさんは、自然の中にこの施設があることの意味を、こう話した。



「ここは湖に近いでしょう。だから、入院した患者は最初にプールに入って、次は湖に連れていく。泳いだり、バーベキューをしたり。障害を負ってショックを受けている人に、ホリデー(休日)のような体験をしてもらうんです。そこで、自分と似た症状を持つ車いすユーザーが人生をエンジョイしていることに気づく。障害との戦いは一生続きます。だからこそ、同じ経験をしてきた人のことを知って『こんな人生もあるんだ』と感じてもらうんです」

障害者が社会をインクルーシブする

様々なショールムームをフライさんが案内してくれた(撮影:越智貴雄)

 パラプレジックセンターは、年間1500人以上の患者に医療を提供し、それを支えるスタッフの数は1400人以上。病院運営のスタイルも独創的だ。



 収入の核は、パラプレジックセンターを支援する190万人の会員で、個人会員の年会費は45スイスフラン(約6390円)、家族会員は90スイスフラン(約1万2780円)。会員は、事故や病気で生涯にわたって車いす生活が必要となった場合、25万スイスフラン(約3550万円)を受け取ることができる。年会費は医療保険のような役割もあるが、脊髄損傷者を支えるために会員になっている人も多いという。



 施設だけではなく、病院運営の経営方針も先進的だ。フライさんは言う。



「障害を負った人たちが、どのようにして社会に戻り、政治や経済の舞台に再び立てるようになるか。社会が、障害者である私たちをインクルーシブ(包摂)するのではなく、私たち障害者が社会をインクルーシブしていく。そのことが大切です」



 そのために力を入れていることの一つが、障害者の実情を知ってもらうこと。院内には、障害を負って車いす生活を送る人が、どのような部屋に住んでいるのかを体験できるショールームが設けられている。



 音楽に夢中になっている子どもの部屋、旅行が好きな成人男性の部屋、四肢麻痺で運動ができない女性が口を使って絵を描くための部屋……。キッチンの高さ、段差を消すにはどうすればいいのか。障害者の日常を体験できる部屋を、職員たちが知恵をしぼって作り上げた。ショールームには、患者の家族だけではなく、障害者政策を学ぶ学生やバリアフリー家具などを開発する人も訪れる。

東京パラで4つの金を獲得したマルセル・フグさんも、同施設でトレーニングを行なっている(撮影:越智貴雄)

 外にある陸上トラックをフライさんに案内してもらっていると、21年のパラリンピック東京大会で四つの金メダルを獲得したマルセル・フグ選手がいた。フグ選手も、ここを拠点に世界で活躍するアスリートだ。フグ選手は言う。



「ここは、私にとってトレーニングの拠点であり、チームメイトや友人たちと過ごす大切な場所。ここにいる人たちが、僕に力を与えてくれます」



 フグ選手はフライさんに憧れ、アスリートとしての道を歩み始めた。37歳になったフグ選手は、今ではさらに若い世代の車いすユーザーの英雄になっている。

施設内にある陸上トラックは、国際大会が開催できる基準をクリアしている(撮影:越智貴雄)

 ただ、パラプレジックセンターの目的は一流アスリートを育てることではない。フライさんは言う。



「車いすユーザーにスポーツをすすめているのは、全員にパラリンピックに出場できるようなアスリートになってもらうためではありません。スポーツを通じて体力をつけて、諦めずにチャレンジする精神を養えば、自立した日常生活を送るための助けになります。すると、自らに誇りを持てるようになる。障害者こそスポーツをやるべきなんです」

目指すのはライフ・クオリティを上げること

車椅子から羽が生えたオブジェ。施設内には、ポジティブにさせる要素が詰め込まれたオブジェや絵画、写真などがたくさん設置されている(撮影:越智貴雄)

 パラプレジックセンターが目指すのは、患者一人一人の「ライフ・クオリティの向上」だ。ライフ・クオリティは日本語では「生活の質」や「人生の質」と訳されることが多い。健常者と障害者がともに生きる共生社会をつくるために、まずは障害者のライフ・クオリティを上げる。それが大切なのだという。



 日本では、健常者と障害者がともに暮らす社会について語るとき、エレベーターやエスカレーターの設置など、インフラ面の改修の話になりがちだ。だが、パラプレジックセンターでは、その人の人生と価値観を大切にし、望む未来を実現するために専門家やロールモデルとなる障害者がサポートする。そして、費用は会員の会費で支える。そんな仕組みを作り上げたことで、スイスの社会も変化した。



 過去には、スイスでも家族に障害者がいると隠す文化があったという。それも04年に障害者不平等撤廃法が施行され、障害者と共生する社会づくりが進んだ。パラプレジックセンターが取り組んできたような社会復帰のためのリハビリも、公的な支援が拡充された。フライさんは、事故から45年が経った今の気持ちをこう話した。



「過去には大変なこともあったけど、私はいろんなことに挑戦できた。今では、障害を負ったことは『ギフト』をもらったんだなと感じています」

事故の後、スポーツで自分を取り戻した

同施設で車いすランナーのキャリアをスタートさせたフライさん(撮影:越智貴雄)

 フライさんは、1978年に友人と一緒に山岳レースに参加した時、崖に落下して脊髄を損傷した。前日の雨の影響で地面が滑りやすくなっていて、ゴール直前で足を奪われてしまったという。



「次の日、病院で医師から『あなたの車いすの人生を準備します』と言われました。本当に辛い日々で、ポジティブになれるものが何一つありませんでした。当時はパラプレジック・センターもなかったですから」



 1970年代のスイスでは、まだ障害者がスポーツをすることは一般的ではなかった。フライさんも、2年間ほどはスポーツを離れた日々を過ごしていたという。それでも、もともと体を動かすことが好きだったフライさんは、スポーツへの思いが断ち切れなかった。そこで、車いすレースのトレーニングを始めることにした。



「今みたいに、車いすマラソン用のレーサーなんてない時代ですから、機具はすべて自作する必要がありました。そんな時代です。そんな時、第3回の大分国際車いすマラソンに出ることになりました」

大分国際車いすマラソンに出場するフライさん(中央)(撮影:越智貴雄)

 大分国際車いすマラソン大会は、日本のパラリンピックの父である中村裕医師の提唱で開催されることになった。当初は、大分別府マラソンと一緒に開催することを希望していたが、関係者の了承が得られなかった。それでも中村医師はあきらめず、世界初の車いす単独の国際マラソン大会としてスタートさせた。



 フライさんは、第3回大会に初出場した。大分の人たちは選手たちを歓迎し、世界から集まった選手たちに大きな感動を与えた。フライさんも「本当に素晴らしい大会で、私の人生に新しい一面を開いてくれました」と話す。

今では、県民から愛される大会となった大分国際車いすマラソン。沿道には多くの人が駆けつける(撮影:越智貴雄)

 当時の日本では、車いすの障害者は外に出ることもはばかれた時代だ。メディアからも「障害者を見世物にしている」との批判も出た。「障害者にスポーツをやらせるとは何ごとか。車いすでフルマラソンなんてとんでもない」といった反発が医師からもあり、第1回大会はハーフマラソンで開催せざるをえなかったという。それでも、フライさんら世界の一流アスリートが毎年大会に出場し続けたことで、県民から愛される大会になっている。



 本格的にトレーニングを始めたフライさんは、第10回大会で初優勝すると、これまでに10連覇を含む計14回の優勝を記録。1999年の第19回大会の1時間20分14秒の世界記録は、2021年に前出のマルセル・フグ選手が破るまで22年間も更新されなかった。出場回数は33回。大会への貢献は大きく、2000年には名誉大分市民の称号も授与された。



 そんなフライさんは、過去に「健常者はスポーツをやった方がいい。しかし、障害者はスポーツをやらなければならない」と言ったことがある。その意味するところは何か。



「みなさんのように、足のある人たちは健康維持やダイエットのためにスポーツをした方がいいと言われますよね。でも、私たち障害者にとってスポーツをすることは『自立心を育てること』なんです。重度の障害ではないのに、すべてを家族に頼りっきりになるのはフェアではないですよね。自立するには、まずトレーニングをして、自分自身で動かせるようにしなければなりません。そして、日常生活では家事をして、移動もする。失ったものを求めるのではなく、下半身が動かなくても、できることを探さなければなりません」



 1999年に世界記録を出した後、フライさんはパラプレジックセンター専属の職員になった。今でも、センターでリハビリをする患者たちのサポートをしている。

スイスのターミナル駅に掲示されている施設広告などで支援者を募る(撮影:越智貴雄)

パラプレジックセンターには、支援をしてくれる人がたくさんいます。その人たちの気持ちが、私たちのプライドになっています。そして、私たちはセンターでの活動を通じて、スイスに変化をもたらしてきました。寄付者の方々と私たちは、ともに還元しあっているのです」



 65歳になったフライさんは、今でも現役のアスリートだ。ハンドバイクで週に400~500キロを走っている。フライさんは、こう話す。



「結果を出すために必要なのは才能ではありません。どれだけ情熱があり、チャレンジを続けるかなんです」

取材・文:西岡千史 通訳:すんみ 衛藤千乃 鷲見良子

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