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パラコラム

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20歳で両足と右手を失った山田千紘さん 富士山頂上で見た景色の本当の意味

富士登山を成功させ笑顔を見せる山田さん(撮影:越智貴雄)

 20歳の時に駅のホームに転落して電車にひかれ、両脚と右腕を失った。生きることに絶望し、死ぬことばかり考えていた時期もあった。それから11年たった今年8月、山田千鉱さん(32)は両足に義足、右手に義手を装着して富士登山を目指し、3776mの最高点に到達した。
 
 なぜ、山田さんは富士登山を成功できたのか。そこには、山田さんの想いを応援するために集まったスタッフと、世界最先端のコンピュータ制御義足の存在があった。
 
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富士山頂から「日本最高峰来たよ、片腕1本で来たよ!」と叫んだ山田さん(撮影:越智貴雄)

「日本最高峰来たよ、片腕1本で来たよ!」
 
 8月28日午前7時46分、富士山の最高峰の剣ヶ峰に到達した山田さんは、日本で最も高い場所から笑顔で叫んだ。
 
 今回のスタート地点となる富士山5号目を出発したのは26日午後。初日は6号目で宿を取り、2日目の27日は登山者が比較的少なく、段差が少ないプリンスルートを進んだ。時おり雨が降ったものの、天候は大きく崩れることもなく順調に8合目まで進んだ。

一列になり富士登山を行う山田さんとサポートメンバー(写真右下のグループ)。後ろには静岡県の綺麗な夜景が見えた(撮影:越智貴雄)

 頂上アタックを目指す3日目は朝3時半に出発。まだ人けの少ない暗闇の登山道を一歩ずつ進む。標高3000mを超えると、傾斜の角度は30度を超える場所が多くなる。疲労の蓄積で、体のバランスを崩してスタッフが支える場面も増えてきた。それでも、足を前に進めるときは自分の力だけで踏ん張り続けだ。難所の岩場を超えたときには「よっしゃー!」と声が出た。
 
 足の切断箇所と義足の接着部分が痛む。次の一歩を進みたくても、狙ったところに足が行ってくれない。すれ違う登山客からは、「手も足もないのにすごい」という驚きの声と同時に、「頑張って!」「もうすぐ頂上だよ!」と何度も励まされ、ひたすら歩み続けた。32歳で初めて富士山頂上に到達したこの日、事故から丸11年が過ぎていた。
 
 山田さんの挑戦には、アイスランドの義足メーカーのオズール社が支援し、登山には明治大学山岳部OBのガイドらが同行して実現した。医学的なアドバイザーとして今回の挑戦に協力した帝京大の石井桂輔医師は、頂上に到達して喜ぶ山田さんの姿を見て、目に涙を浮かべていた。
 
「予定したよりもかなり早く頂上に来ることができました。義足の感覚を、時間を重ねるごとに身につけた感じでした。高校野球の甲子園では、1度勝ったチームが勢いに乗ってどんどん強くなって勝ち進むことがありますよね。そんな姿を見ている感覚でした」

20歳の時に事故で3肢を切断した山田さん(撮影:越智貴雄)

 山田さんが事故にあったのは2012年7月24日で20歳の時だった。ケーブルテレビ局の営業職として働き始めてすぐの頃だった。日中の業務を終え、先輩との飲み会に参加した後、終電間際の電車に乗ると疲労とアルコールの影響で寝込んでしまった。この頃、仕事で早く結果を出そうと連日連夜働き続けるうちに、体調を崩していたことも影響していたのかもしれない。気がつくと、自宅の最寄り駅は通り過ぎ、JR京浜東北線磯子駅で駅員に起こされて電車を降りた。その後も駅のプラットホームでもうつらうつらして電車に乗り込もうとした時、線路に転落。そこにやってきた電車と衝突した。
 
「事故の日のことは今もあまり覚えていないのですが、意識が回復すると右手がないことに気づきました。夢かなと思って、それで顔を洗おうと思ったらベッドから転げ落ちて、足もないことに気づきました。あまりにも痛くて悲鳴をあげたんですけど、それと同時に、これは現実なんだと知らされました」
 
 考えたことは、「人生終わったな」。絶望に打ちひしがれる毎日だったという。
 
 それでも、自分のことを懸命に世話をしてくれる医師や看護師、それまでと変わらなく接してくれる友人や家族に支えられて、前を向いて進むことを決意した。
 
「両足と右手を失ったけど、僕も、他の人も、みんな同じ時間が流れているんですよね。1日が24時間であることは同じ。それなら、誰もが平等に与えられた24時間を、より楽しく充実させた方が人生は豊かになる。そう思って生きることにしました」

山田さんが出場を目指したパラリンピック(撮影:越智貴雄)

 もともと、目標を立てて、それを達成するために努力することが好きな性格だった。事故にあったのも、新しい仕事に熱中しすぎて体調を崩し、そんな時にお酒を飲んでしまったことが原因だった。でも、後悔してもしょうがない。事故で大きなケガをして、たくさんの人に助けられた。これからの人生は「誰かのためになりたい」と思うようになった。
 
 それでも、新しい目標を見つけるまでの道のりは厳しかった。退院後に挑戦したのは、パラスポーツ選手になることだった。事故が起きた7月24日は、東京2020オリンピックの開会式と同じ日だ。オリンピックの後に開催されるパラリンピックに出場できれば、いろんな人に新しい自分の姿を見せることができて、勇気を与えられるかもしれない。そう考えて、パラスポーツに取り組むことにした。
 
 まずは、両足と右手がなくても競技に問題がなさそうな水泳に挑戦してみた。ところが、水に入っても体が浮かない。左手1本でクロールしてもうまく前に進まない。泳げるようになったとしても、世界で戦えるスポーツ選手になるのは難しかった。
 
 次に試したのは車いすラグビーだ。病院でも車いすに乗ることは得意で、自信があった。それがいざ競技をしてみると、高速で動く車いすを左手1本でコントロールするのは容易ではなかった。正面方向に進みたくても、少しずつカーブしてしまう。時には一回転してしまうこともあった。さらに問題だったのが、障害のクラス分けだった。
 
 車いすラグビーは、選手の障害の程度によって0.5(重い)から3.5(軽い)に0.5点刻みで段階に分類される。試合では、1チーム4人の合計点数を8点以内にしなければならない。
 
「僕の場合、体幹が残っているのと、右腕の上肢があるので、クラス分けでは2.5か3.0になってしまう。この点数の選手は、チームの中心選手となって点取り役も求められます。こんな体では、とても無理でした」

山田さんがパラリンピック出場の目標に向けて、これなら出来ると目指した車いすフェンシング(撮影:越智貴雄)

 最後に「これならできる」と思ったのが、車いすフェンシングだった。2016年のリオ大会と2021年の東京大会でパラリンピック2大会連続金を獲得したベアトリーチェ・ビオ(イタリア)は、11歳の時に髄膜炎にかかり、両手の肘から先と両足の膝から下を切断した。彼女はスポーツ選手だけではなく、モデルとしても活躍していて、インスタグラムのフォロワー数は136万人以上。イタリアでは「べべ」の愛称でも親しまれている。車いすフェンシングだと、山田さんのような三肢切断の人でも活躍できる可能性があった。
 
 ところが、当時、車いすフェンシングの練習場は京都にしかなかった。山田さんは、退院後の目標に「自立」を掲げていた。両足と右手がなくても、日常生活を1人で暮らせるようにする。仕事を見つけ、社会人として経済面でも独立することを目指していた。そのなかで、練習のたびに東京から京都に行くのは現実的には不可能だった。
 
 山田さんは、スポーツ選手になるうえで不利な点もあった。事故の時の山田さんの年齢は20歳10カ月。会社は働き始めたばかりで厚生年金には2カ月しか入っておらず、それ以前は年金納付の免除申請ができていなかった。障害基礎年金(1級は年間約90万円、2級は年間約80万円)は、納付済みの期間と免除期間を合算した期間が全体の3分の2以上でなければ受給できない。わずか8カ月間の未納期間のために、障害年金を受け取ることができなかったのだ。それだけではない。事故現場が通勤経路から外れていたため、労災保険の給付も受けることができなかった。
 
 それでも、山田さんは前を向く事はやめなかった。
 
「失ったものを悲しむのではなく、プラスを数えていくこと。障害年金も労災もないけど、手足を失ったことによって得られた人生もある。それを大事にしていきたかった」
 
 山田さんは退院後、就職して一人暮らしを始めた。その様子を自らのYouTubeチャンネル「山田千紘 ちーチャンネル」で公開すると、視聴数がぐんぐん伸びた。今では約20万人のチャンネル登録者数がいる。山田さんが前向きに生きる姿を見て、子どもから大人までたくさんのファンレターが届くようになった。

山田さんの生活を支える最新の人工知能機能が搭載された「リオニーXC」(撮影:越智貴雄)

 今では、生活のほとんどを自分一人でこなし、どこにでも一人で出かけることができる。そんな山田さんの日常生活を支えるのが、最新のAI人工知能機能が搭載されたオズール社のコンピューター制御義足「リオニーXC」だ。
 
 足を切断した人にとって、膝が残っているかどうかで日常生活の困難さが大きく変わる。膝を失った人は、膝のある人に比べ、義足をつけても歩くことがはるかに難しいからだ。
 
 膝がない人が義足を装着して歩くことは、「竹馬に乗っているような感じ」と言われる。少しでも重心の位置が崩れると、すぐに転倒してしまう。街を歩いていると、人とぶつかることが怖くて、慎重に歩かざるをえない。膝上切断の義足ユーザーには、転倒によって骨折した経験がある人も多い。
 
 それが、リオニーXCでは、膝関節の動きをAIで再現し、転倒を予防してくれる。山田さんは、2019年に初めてコンピューター制御義足をつけたとき「この義足で転ぶイメージが浮かばなかった」と感じたほどの衝撃だったという。
 
「僕のように両足義足で右手もないと、一度転倒すると立ち上がれない時もあるんです。人混みの中を歩いていると、後ろから押される場合もある。それが、この義足だと前屈みになって転倒しそうになると、自動で体重を支えてくれる。多少は人とぶつかることがあっても大丈夫です。外を出かけることに怖さがなくなったから、歩くスピードも上がって、出かける範囲も広がりました」

山田さんの左足大腿義足は、最新の人工知能機能が搭載された「リオニーXC」。右足義足は、「プロフレックスXC」(撮影:越智貴雄)

 山田さんが今回富士登山に挑戦した理由の1つは、日本ではまだ使用する人が少ないコンピューター制御義足について知ってもらいたいという思いもあった。
 
「義足を購入する時には補助金がつきますが、コンピューター制御義足には地域によって補助が出る自治体とそうでない自治体があります。富士山の頂上に到達できたのは、コンピューター制御義足でないとできなかったことです。どれだけトレーニングをしても、通常の義足では乗り換えられない壁があった。それを、僕はたまたまオズールの協力を得て挑戦できました。僕は、コンピューター制御義足のことを知ってもらって、誰でも日常生活を送ることができる選択肢を持てる社会になってほしいし、そのための活動もしていきたいと思っています」

登頂に成功し、山田さん(中央)と記念撮影を行うサポートメンバーたち。右端は、オズールジャパンの楡木社長(撮影:越智貴雄)

 オズールの社是は「Life Without Limitation(制約のない人生)」の実現だ。世界最先端の技術によって、人間の可能性を最大限に引き出すことを目指している。今回の山田さんの富士登山プロジェクトにも、オズールがバックアップした。オズールジャパンの楡木祥子社長は、こう話す。
 
「富士山を登りたいと言う話を聞いて、正直難しいんじゃないかと思っていたんです。でも実際にやってみると、富士山を登ることは日常の繰り返しでした。山田さんが使った道具も、右手にスティックを装着した以外は、両足の義足も一般に販売されている商品と同じでした。私たちは、義足を作ることはできるけど、義足を使った人のメッセージを伝えることはできません。山田さんが義足によって人生が変わることを教えてくれて、それはすべての義足ユーザーへのメッセージになったと思います」

登頂後、喜びあったサポートメンバーの石井医師(左)と山田さん(撮影:越智貴雄)

 山田さんは事故から5年間、国立障害者リハビリテーションセンターに通い、医師や理学療法士の協力を得ながら日常生活を送るうえでのトレーニングを受けた。そして、その思いは今、富士登山をサポートするメンバーに引き継がれた。もちろん、これで終わりではない。山田さんは、次はスノーボードに挑戦してみたいという。
 
「これまでお世話になった人には、一生をかけて恩返ししていきたい。みんなと一緒に、夢を見て生きていきたい」
 
文:西岡千史

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