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パラコラム

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オリンピック記録を超えたパラ選手の謎 最新科学が解明した“隠された能力”を引き出す「身体」と「脳」

今年のパラ欧州選手権で8メートル62センチのパラリンピック世界記録で優勝したマルクス・レーム(撮影:越智貴雄)

 この夏、一人の金メダル候補が東京オリンピックの出場を拒否された。その男の名はマルクス・レーム(32)。ドイツ出身の男子走り幅跳びの選手で、今年6月の大会で8メートル62の自己最高記録を更新した。8月2日の東京オリンピック男子走り幅跳び決勝で、金メダルを獲得したミルティディアス・テントグル(ギリシャ)の記録は8メートル41。レームは、その記録を21センチも上回っていたことになる。

 彼がオリンピックから“排除”された理由は一つしかない。右足が義足の「ブレード・ジャンパー」だからだ。14歳の時にウェークボードの事故で右ひざ下の部分を失ったが、その2年後に競技用義足と出会い、走り幅跳びの選手として才能を開花させた。パラリンピックでは、12年ロンドン大会と16年リオ大会を連覇。いまや、1991年にマイク・パウエルが記録した8メートル95センチの世界記録を破る可能性のある選手として注目されている。

 それゆえに、彼の存在はいつも議論の的だ。レームは義足で踏み切ってジャンプをする。それが「テクニカル・ドーピング(道具によるドーピング)」に該当するとの批判があるからだ。スポーツ用義足を研究する、産業技術総合研究所の保原浩明研究員は言う。

「パラリンピックは共生社会の象徴として語られることが多いが、それは、これまではオリンピック選手に比べて圧倒的に記録が劣っていたから。パラ選手が予選落ちなら、誰もが大会への参加を称賛するが、レームのように金メダルの可能性が高まると批判される。オリンピックとパラリンピックの記録の差が小さくなればなるほど、分断は起きやすくなるのです」

パラリンピック2連覇中のマルクス・レーム。東京での跳躍にも注目が集まる(撮影:越智貴雄)

 リオ・オリンピックへの出場を求めたレームに、国際陸上連盟(現世界陸連)は、レームに義足の反発力が競技に有利に働いていないことを証明するよう求めた。陸上のトラック種目では、過去に両足義足のオスカー・ピストリウス(南アフリカ)がロンドン・オリンピックに出場したことがあるが、現在は出場基準が厳しくなった。ピストリウス以降は、義足選手でオリンピックに出場した選手はいない。

 保原氏によると、走り幅跳びの場合、義足では助走が不利になり、踏切で有利になることが多い。だが、トータルで有利か不利かの結論は出ていないという。東京オリンピックでは、ドイツのオリンピック委員会も協力し、成績が付かない参考記録という形で国際オリンピック委員会(IOC)に出場許可を求めたが、それも認められなかった。

 競技用義足だからといって、誰でも8メートルのジャンプができるわけではない。事実、レームはリオ・パラリンピックで8メートル21を記録したが、銀メダルの選手は7メートル29。2位以下は日本の高校生と同じ程度のレベルだ。それでも、今後はレームのような例は次々に現れると予想されている。前出の保原氏は言う。

「私の計算では、男子100メートルの義足選手がオリンピック選手の記録を抜くのは2069年。これは、トレーニングの進化や道具の発達だけで起きるものではありません。科学的な分析の結果、義足アスリートにはこれまでの常識をくつがえす研究結果も次々と出ています」

 保原氏がパラ選手の動作解析をしたところ、義足アスリートは記録が良い選手ほど「左右のバランスが悪い」という。

「トップレベルの片足義足ランナーの場合、走った時に障害のない方の足にかかるパワーは、義足側の半分程度しか力がかかっていません。普通のオリンピック選手では、これほどの違いが出ることはありません」

100メートルの世界記録を持つウサイン・ボルト(左)も左右非対称の走り方をしていた=写真は2011年世界選手権(撮影:越智貴雄)

 実は、偉大な世界記録を持つランナーも、左右非対称の走り方をしていた。ウサイン・ボルトは脊柱側弯症という持病があり、生まれつき背中が曲がっている。そのため、走る時に左右のバランスが悪かった。しかし、2009年に打ち立てた100メートル9秒58という彼の世界記録は、いまだに破られていない。義足のランナーとボルトには、これまでのスポーツ界の常識では考えられなかった共通点があった。

自身の体重の3倍ほほどの重さを持ち上げるパワーリフティングの選手(撮影:越智貴雄)

 健常者の記録を超えたのは、義足の選手だけではない。パラリンピックの正式競技であるパラパワーリフティングは、下半身にマヒのある選手がベンチプレス台に仰向けになり、バーベルを押し上げる。健常者に比べて下半身の踏ん張りが使えないので、常識的にはパラ選手に不利な競技だ。

ところが、イランのシアマンド・ラーマンはリオ・パラリンピックで310キロの世界記録を樹立。これは、ほぼ同条件で実施された健常者の世界記録を上回るものだった。ラーマンは昨年3月に心臓発作のため31歳の若さで急逝したため、東京パラリンピックではその勇姿を見ることができなくなってしまったが、今でも彼の存在は「人間の限界を超えたアスリート」として称賛されている。

なぜ、ラーマン選手のような「超人」が誕生するのか。それは、「脳の使い方」も健常者とは違うという分析もある。パラ選手の脳の動きを研究する東大大学院総合文化研究科の中澤公孝教授は言う。

「一般的に人間の脳は、右半身を動かすときは左脳だけ、左半身を動かす時に右脳だけが活性化します。ところが、マルクス・レーム選手の脳をMRI(磁気共鳴画像化装置)で調べると、義足の右足を動かす時に両方の脳を使っていることがわかりました。日常的にスポーツをしない一般の義足ユーザーは、こういった脳の反応はありません。ラーマン選手も、下半身が動かないことで上半身の神経が発達した可能性があります」

 脳卒中などで脳の神経に損傷が残り、腕や足にマヒが残った人でも、リハビリを繰り返すと手足が動かせるようになることがある。その時、損傷していない部分の脳が、マヒした部分を動かすために活動している。脳科学で「代償反応」と呼ばれる動きだ。一方、中澤教授が発見したのはそれとは真逆の現象だった。足に障害を負った人が、無傷の脳に大きな変化を引き起こしていた。中澤氏は「パラ選手は、人間の身体や脳が持つ隠された能力を引き出す人たちでもある」と話す。

今後も、マルクス・レームやシアマンド・ラーマン以外にもオリンピック選手を凌駕する記録を出すアスリートは出てくるだろう。だからといって、パラ選手がオリンピックに出場できるようになればいいという単純な話でもない。もし、パラ選手がオリンピックに出場して次々にメダルを取れば、オリンピック選手の中で「メダルのために足を切りたい」という人が出てくるかもしれない。オリンピックとパラリンピックの境界線を揺るがす「超人」の存在を、世界の人々はどう受け入れたらいいのか。その答えはまだ出ていない。

(文:西岡 千史)

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