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パラコラム

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15歳で右足を切断して失った“自信” 未婚の母からモデルに、そして写真集の表紙になるまで

写真集「切断ヴィーナス2」の表紙写真に使用された美南海さんの写真(撮影:越智貴雄)

 11月に発売されたパラアスリートら義足の女性たちの写真集「切断ヴィーナス2」では、京都市在住の金子美南海(みなみ)さん(25)の写真が、表紙で使われている。2011年に交通事故で右足の一部を失った金子さんは20歳で子供を出産し、未婚の母になった。出産、育児に追われながらも美容師の資格を取得し、現在は義足モデルとしても活動している。それでも、事故直後は自分に自信が持てなくなり、義足を隠す生活をずっと続けてきたという。写真集で義足を付けていない“ありのままの姿”を出すことを決めるまでには、長い道のりがあった。

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 事故にあった日付は、今でもはっきり覚えている。5月22日の早朝だった。

 中学校を卒業したばかりの美南海さんはその日、京都市内の繁華街で友人たちと夜通し遊んで、最後には疲れて帰路についていた。同市内の病院前で友人3人と一緒にタクシーを待っていると、すでに時計の針は朝5時を回っていた。今となっては、15歳の少女がその時間帯に外にいるのは似つかわしくないことはよくわかる。悲劇はその時におきた。

 美南海さんがタクシー会社と携帯電話で話をしていると、轟音が聞こえた。迎えに来たタクシーの後部にトラックが衝突したのだ。すると、タクシーは急加速して美南海さんに向かって突進。気がつくと、腰をかけていた病院前の大きな庭石と車のバンパーの間に両足が挟まれていた。

「でも、痛みはまったくなかったんです。タクシーの運転手さんが慌てて車を降りてきて『ケガはないですか?』とたずねてきたんですけど、私の姿を見て、運転手さんは気を失ってしまいました。その後に、自分も失神したそうです」(美南海さん)

 ICU(集中治療室)で意識を完全に回復するまで約1週間かかった。手術は何度受けたかもわからない。不幸中の幸いだったのは、事故が病院の前で起きたことだ。後に医師からは「すぐに病院に運ばれていなかったら、出血多量で死んでいた」と言われたという。そんな緊迫した状況の連続で、右足の切断も突然やってきた。

「後で聞いたら、家族は右足を残すようにお医者さんにお願いをしていたそうです。左足は奇跡的に足首の骨折などですんだのですが、右足は壊死が始まっていて、切る以外に方法がなかった。それで意識が戻った後、手術が始まる30分ぐらい前だったかな。姉から『このままだと美南海は死んじゃう。私は美南海に生きていてほしいの』と言われました。足を切るしかないんだなと。それで、お医者さんに一言だけ『お願いします』と言ったことを覚えています」(美南海さん)

父親が医師に手術で膝を残すようにお願いをしたことで、膝下からの切断となった(撮影:越智貴雄)

 15歳の少女が足を切るのに、迷う時間は与えられなかった。ただ、この時の判断は後から考えると最良の選択だった。当初、医師たちの間では、壊死が進んでいた右足は太ももの部分から切断することが検討されていた。それに対して美南海さんの父親は、膝を残すよう医師にお願いをしていたのだ。

 義足ユーザーにとって、膝関節の有無は日常生活を送るうえで大きな違いがある。膝上切断の大腿義足は、膝関節部に大きな力がかかると急激に折れ曲がって転倒することがある。階段の昇り降りも膝下の義足に比べてはるかに負担が大きい。美南海さんの父は、事故後に義足のことについて調べていた時に、そのことを知って医師に膝を残すようお願いをしたのだという。

「切断ヴィーナス2」の写真にあるように、今でも美南海さんの右足は膝から下に9センチ程度しか残っていない。それでも、その9センチがあったことで、退院してから3カ月後には義足で歩けるようになった。事故からすでに約半年が過ぎ、季節は秋になっていた。

義足で歩けるようになって、友達に会いに行った(撮影:越智貴雄)

「義足で歩けるようになって、友達に実家の近くにある公園に来てもらったんです。6人ぐらい来てくれたかな。事故の時に一緒だった友達もいました。みんなどんな事故だか知っていたので、まさか歩いて来るとは思ってなかったみたいです。義足で歩いて来たことに驚いて、『また遊びに行こうな!』って言われて泣いてしまいました」(同)

 義足を付けたことで、不便なところはあるけれど、徐々に日常生活を取り戻すことができた。しかし、本当の試練が始まったのはそれからだった。

「事故の前までは、若さもあって恐いもの知らずなところがあったんですけど、自分に自信を失ってしまったんです。新しく知り合った友達にも『義足のこと、バレてないかな』って思ってしまう。その頃は人と違うことが嫌だったんだと思います」(同)

生き方を見つめ直すきっかけを与えた父からの言葉

美南海さんは、父親は日本人、母親はフィリピン人のルーツを持つ(撮影:越智貴雄)

 美南海さんの父親は日本人、母親はフィリピン人というルーツがある。同質性の高い日本社会では、義足になる前から生まれつきの“異質”な存在だった。そのことで、小学校の時にはいじめられたこともあったという。

「小学校5年生の時でした。それまで仲の良かった友達が話をしてくれなくなって、『消えろ』とか『フィリピンに帰れ』とか言われるようになったんです。バイキン扱いです。小学生なのに『死にたい』と思ってましたから、本当につらかった」

 中学校に入ると、美南海さんは不良グループに入った。いじめっ子たちがやってくると、美南海さんの味方になって助けてくれる仲間もいて頼もしかった。ただ、生活は荒れ始め、中学3年生の時には授業にまったく出なくなってしまった。陸上部で好成績を収め、強豪校から推薦をもらっていたが、高校には行かなかった。事故は、中学校を卒業して宙ぶらりんの生活をしていた時に起きてしまった。

 特に困ったのが、働く場所が限られていたことだ。居酒屋やレストランではしゃがんだり、立ったりする作業が多くて難しい。そこで選んだのが、ガールズ・バーだった。ガールズ・バーなら、男性とカウンター越しで話をするだけ。時給も高くて、お酒を飲む必要もない。そこで得たお金で、友達と遊びに行く日々を過ごしていた。

 18歳の時に、初めてタトゥーを入れた。

「足を切ったことで、これから一生、銭湯も、温泉も、海で水着を着ることもないなと思って、それならタトゥーを入れようかなと思ったんです。左腕には『自分の生きる人生を愛せ。自分の愛する人生を生きろ』という言葉を入れました。自分に、この言葉を言い聞かせたかったんです」

「自分の生きる人生を愛せ。自分の愛する人生を生きろ」は、英語で「Love the life you live. Live the life you love.」と書く。レゲエの神様、ボブ・マーリーの言葉だ。

だが、そんな生活を続ける娘を厳しく叱責する人がいた。膝関節を残すことを医師に進言してくれた父だ。父はこう言った。

「そのままではいかんぞ。手に職をつけるとか、何かせなあかん」

 事故で心にも傷を負った美南海さんに、こんなことも遠慮なく言った。

「ちゃんと高校に行っていたら、事故にあったあの場所にいなかったかもしれない。そのことを考えろ」

19歳の時、父からの進言で美容師の道を目指すこととなった(撮影:越智貴雄)

 言われた時は反発もしたが、美南海さんは父の言葉を受け入れて、19歳の時に美容師になるための専門学校に入学することを決めた。ところが、入学して2カ月で、当時付き合っていた男性との間に子供ができたことがわかった。美南海さんは義足になってから恋愛をあきらめていたが、その彼は義足であることを初めて受け入れてくれた男性だった。ただ、妊娠が発覚してからすれ違いが多くなり、美南海さんは別れを決意。父に泣きながら「もう産めないかもしれない」と話したという。すると、父はこう言った。

「全部お父さんに任せろ。美南海は産むことだけ考えろ」

 美南海さんは当時をこう振り返る。

「自分でも思うんですけど、本当に波瀾万丈ですよね。今でも実家に行くといろいろと言われるんですけど、後になるとお父さんの言っていることは、全部当たってる。『お前はシングルマザーになる』とも言われてましたから。予言者です(笑)」

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モデルとして写真を撮られることで変化した意識

モデルとして堂々と写真撮影にのぞむ美南海さん(撮影:越智貴雄)

『切断ヴィーナス2』のモデルになったのも、父の言葉がきっかけだった。

 美容師として育児をしながら働き始めた美南海さんには、悩みがあった。美容師の仕事は一日中立ちっぱなしで、歩き回らなければならない。長時間労働で、就業時間が終わっても夜はカットの技術を学ぶための研修もある。客からは厳しい言葉も言われる。肉体的にも精神的にも負担が大きいのに、給料は安い。新人美容師のうち1年以内で50%、3年以内で80%の人が辞めていくという厚生労働省の調査結果があるほど、厳しい仕事だ。

 義足で立ち仕事を続けていると、義足と接する切断部分に傷ができて痛み出す。包帯を巻いていても血が赤くにじんでくる。美容師として少しずつ技術が上がってきて、頑張ろうと思った矢先に傷ができて休まざるをえなくなる。その繰り返しだった。もう、美容師を続けるのをあきらめかけていた頃だった。父からこう言われた。「どうすればいいのか、もっと自分で調べてみなさい」

 義足についてネットで検索すると、鉄道弘済会・義肢装具サポートセンター(東京都荒川区)に務める臼井二美男さんの記事がヒットした。臼井さんは、パラリンピックのアスリートにも義足の提供をしている義肢装具士の第一人者だ。同センターに電話をかけると、臼井さんから「一度、鉄道弘済会まで来てみてください」と言われた。

 上京した美南海さんの足を見て、臼井さんは「こんな足で美容師の仕事を続けていたのか」と驚いたという。臼井さんは言う。

「初めてあった時の印象は、京都の人らしく人当たりのやわらかい女性だなと思ったんですけど、話を聞くとシングルマザーで子供を養っていかないといけない。義足の悩みがつのって、ここ(鉄道弘済会)に来れば解決してくれるのではないかと思ったんだなと。そんな強い気持ちを感じました」

義足を調整する臼井さん(右)と美南海さん(撮影:越智貴雄)

 臼井さんは、その日のうちに美南海さんの義足の調整と補修に取りかかった。義肢装具士としての臼井さんの特徴は、義足ユーザーとの「会話」にある。義足を調整して、ユーザーが歩行テストをする。それを何度も繰り返す。その様子は、職人としての技術を駆使するというよりも、その人が持つ悩みを優しく聞く友人のようだ。人間の体だから、成長や衰えもある。だから、その人が望めば何度でも義足を修正していく。美南海さんにとって、そんな義足の調整は初めての経験だった。

臼井さんの手によってできた新しい義足ができた時には、美南海さんの足に傷ができることはなくなり、美容室での長時間の立ち仕事や激しい動きもこなせるようになっていた。すると、中学生の時にファッションモデルに憧れてオーディションを受けたこともある美南海さんに、臼井さんが切断ヴィーナスのモデルになるよう推薦してくれた。

「それまで義足を見せることなんて考えたこともなかったんです。全身が映る写真とかも避けてきました。切断ヴィーナスで写真を撮られるまでは、自分の中ではまだ心のどこかで義足を受け入れてなかったのかなと思います」

2022年には、オーナー兼スタイリストとして、美容室をオープンさせる(撮影:越智貴雄)

 義足を外して撮影された美南海さんの写真に、両親も驚いたという。これまで義足を隠し続けてきたことを知っていたからだ。そして、美南海さんは新たな道に踏み出した。現在、京都市西京区の上桂駅近くに美容室「Harris」を開業する準備を進めている。オーナー兼スタイリストとして、2022年2月にオープンする予定だ。美南海さんは、今の気持をこう話した。

「私、自分に自信が持てるようになりたいんです。あの事故のことも、いま振り返ったら後悔していない。いつか、そう思えるようになりたい」

 1981年に36歳でこの世を去ったボブ・マーリーが残した名曲「No Woman,No Cry」には、こんな歌詞がある。

「In this bright future you can’t forget your past,so dry your tears.」
(これからの明るい未来でも、君は過去を忘れることはないよ。だからもう、涙をふいて)

 この曲の作者としてクレジットされているヴィンセント・フォード(通称「ターター」)は、両足を切断した車いす生活者だった。ターターが実際に曲作りに参加していたかは不明だが、ボブ・マーリーは、貧困者を支援する活動をしていたターターや過酷な環境で暮らすジャマイカの人たちを励ますために、この曲を歌ったといわれている。「No Woman,No Cry」には、こんなフレーズもある。

「Everything’s gonna be alright.」
(全部なんとかなるさ)

文:土佐豪史 写真:越智貴雄

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