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パラコラム

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「足を切った時の絶望より辛い出来事がその後にたくさん待ち構えている」絵本作家とパラ陸上の二刀流・前川楓が語る未来

絵本作家とパラ陸上の二刀流の顔を持つ前川楓選手(撮影:越智貴雄)

 義足をテーマにした絵本をつくりたい──。パラリンピック陸上日本代表としてリオ大会と東京大会に出場した前川楓さん(まえがわ・かえで=24歳)が制作した絵本『くうちゃん いってらっしゃい』(白順社)の売れ行きが好調だ。絵本では、右後ろ脚が義足の子犬「くうちゃん」を主人公に、義足ユーザーの日常が描かれている。

 実は、この絵本は昨年夏、前川さんが東京パラの日本代表選手として厳しいトレーニングを重ねながら、同時進行で制作した。なぜ、そんな無茶なことをしようと思ったのか。中学3年生の時に事故で右脚を失い、それを乗り越えてアスリートやアーティスト、モデルなど幅広い活動をしている前川さんの“人生哲学”を聞いた。

絵本『くうちゃん いってらっしゃい』書影

──国際パラリンピック委員会(IPC)の選手紹介ホームページ(英文)では、職業欄に「アーティスト」として紹介されていました。

 なんででしょうね・・・・・・。 自分の職業をアーティストと名乗ったことは一度もないので、初めて知った時は驚きました。

 たぶん、義足のキャラクターを雑貨やLINEスタンプにして販売していたことがメディアで報道されたからだと思います。あとは髪の毛の色が派手だったからでしょうか(笑)

──絵を描くことは、子供の頃から好きだったんですか?

 もともと人見知りで、初対面の人と話をするのは苦手なんです。特に子供の頃は、友達に自分の言いたいことが伝えられないこともよくありました。それで、イヤなことがあったら、その心の中を映したキャラクターを作ったり、マンガの絵の模写したりして発散していたんです。

 私、絵には自信ないんです。美術のレッスンでイスや果物の模写もやったことがありますが、本当に苦手で。ただ、頭の中にあるキャラクターを描き出すことはずっと好きでした。今でも、絵は苦手なままだけど、好きなことを好きなようにやっていけばいいや、という感じなんです。

合宿や遠征の合間に作品を制作する前川選手。写真は2020年12月に沖縄で開催されたパラ陸上合宿の休息日(撮影:越智貴雄)

──絵本をつくろうとおもったきっかけは?

 初対面の人と話すことは苦手なのに、最近は小学校や中学校で講演する機会も増えました。そういった場所に行くと、子供たちははじめて義足を付けた人を見るわけです。すると、「義足はどうやって付けるの」とか「お風呂はどうやって入るの」といった質問がいっぱい来るんです。

 一方、走り幅跳びの山本篤さん(パラ男子走り幅跳び日本代表)のお子さんは、小さい頃からお父さんの義足に触れているので、義足のネジを調整する姿のモノマネなんかやっている。そういった姿を見て、子供たちが、お父さんやお母さんと一緒に小さいころから義足について知る機会があればいいなと思っていて。「それなら絵本を作ろう!」と思うようになりました。

──『くうちゃん いってらっしゃい』は昨年12月に発売されました。昨年は東京パラもあって、アスリートとしての活動も忙しかったのではないですか。

 昨年の夏は、合宿や遠征が続いていて、合宿の練習の合間やオフの日にずっと描いていました。

 でも、私はそれの方がいいんです。一時期、アスリートとしての活動を最優先して、私生活にいろいろと制限をかけたことがありました。そうしたら、逆に自分のやりたいことが見えなくなってしまったんです。

 東京パラでメダルを取りたいから、いろんなことを我慢している。なのに、毎日の練習は「早く終わってほしい」と思ってしまっている。そんな自分がショックでした。

 私は、何でも「やりたい」と思った時に行動したいタイプで、その気持ちがないと逆に頑張れない。それで、今やりたいことは全部やることにして、絵本も描きました。でも、めっちゃ大変でした(笑)

──東京パラで出場した走り幅跳びでは、雨の降る難しいコンディションでありながら、自己ベストにあと3センチまで迫る5位入賞でした。

 2017年世界選手権ロンドン大会で銀メダルを取ってから、東京大会までの間で自分のやりたいことが少しずつ見えてきた。なのに自己ベストが出なかったことは「くやしーっ!」って感じです。でも、絵を描くことで陸上も頑張ろうと思えるようになって、今では両方とも「なくてはならない存在」になりました。

中学3年時の事故で、義足をつけるようになった前川選手(撮影:越智貴雄)

──14歳の時に事故で右足を切断した時の話を聞かせて下さい

 犬の散歩をしている時に、ブレーキとアクセルを踏み間違えて駐車場から飛び出してきた車に、塀との間にはさまれた事故でした。

 最初は何が起きたかわからなかった。だんだん痛みがひどくなってきて、よく見たら周りが血の海で、車もあるし、その時に事故に遭ったのかとわかりました。事故から5日後に、医師の先生から「このまま死ぬか、足を切るしかない」と言われて。それで足を切ることを選びました。

──中学3年生の時に事故で右脚を失って、ショックは大きかったのではないでしょうか。

 当時は部活でバスケットボールをしていて、夏の最後の大会の1週間前でした。それに出場できなかったことがつらかった。

 将来のことを考えると、不安もありました。でもその時に義足ユーザーでモデル活動をしているGIMICOさんのことをネットで知ったんです。見た瞬間に、「かっこいい!」と思って、すぐに「義足がほしい!」って思うようになったんです。

 ただ、義足を使えるようになるには、足の骨がくっついて、皮膚も再生されている必要があるので、中学校の間は松葉杖で学校に通っていました。

前川選手が描く義足のデザイン(前川選手提供)

──中学校の制服はスカートですよね。右足がないままの状態で学校に通ったんですか?

 そうです。右脚はないまま登校していました。

──周りの反応はどうでしたか。

 さすがに突然学校に行ったらビックリするから、事故後に初めて登校する前には担任の先生に手紙を渡して、事前にクラスで読んでもらいました。

 手紙には、車がぶつかってきて足がぐちゃぐちゃになったこと、今はリハビリをしていること、松葉杖では移動教室で荷物を運ぶのが大変なので、みんな手伝ってくれたらうれしい、といったことを伝えました。

──クラスメイトの反応はどうでしたか。

 学校に行く前はやっぱり不安はありました。それが、学校の昇降口に行くと、たくさんの友達が迎えに来てくれた。教室に行ったら黒板一杯に「おかえり!」といったメッセージがたくさん書かれていて、本当にうれしかったです。最初は、学校の先生に2限までと言われていたんですが、6限まで残ってしまいました。

「SEKAINO OWARI」の野外ライブでジャンプするために、義足を使うことを決意した前川選手(撮影:越智貴雄)

──義足で歩けるようになったのは?

 高校に入ってから義足のリハビリがうまくいかない時期があって「もう、このまま松葉杖でもいいか」なんて思っていた時期もあったんです。その時に、大好きな「SEKAINO OWARI」の野外ライブが10月にあるということを知って「大変や!」と。松葉杖ではジャンプもできない、義足が絶対に必要になる。それで、夏休みに2週間入院して、義足で歩けるように練習をしました。

──え、2週間で歩けるようになったんですか?

 先生からは2カ月かかると言われていたんですが、夏休みの間に2週間しか休みが取れなかったので、必死に頑張りました。10月のライブは一番前の席で、ジャンプもできました。飛び跳ねすぎて血だらけになりましたけど、あの時は生きてきた中で一番幸せでした。

2022年3月、前川選手の跳躍(撮影:越智貴雄)

──その後、パラ陸上に出会い、2016年のリオ大会で銀メダルを獲得しました。今、目指しているものは?

 自分の頭の中では理想のジャンプがあって、まずは助走をして、こう踏み切りをして、このフォームで跳んだら「美しい」というのがあるんです。それが実現できれば記録は後からついてくると思っているんです。

 あとは、私が憧れている山本篤選手、パラ陸上のきっかけを与えてくれた大西瞳さん(リオ大会走り幅跳びで6位入賞)は、競技以外のところでもいつも誰かを勇気づけています。私も、そういう本物のアスリートになりたいと思っています。

スチームパンクをイメージして撮影された写真(撮影:越智貴雄)

──アーティストとしての活動は今後も続けていきますか。

 これからも陸上を続けながら、やりたくなったことは同時にやっていきたい。

 絵本をつくったのもその一つで、最近は、自分のやっていることが、自分の中で全部合わさっているのを感じているんです。

 私の中では、足を切った時の絶望より辛い出来事がその後にたくさん待ち構えているんです。その後の方がもっと大変でした。「死にたい」と思うほどつらいこともたくさんあった。だけど、それがあったから成長できました。

 自分の書いた絵を、誰かが見て喜んでくれる。それを見て、また「頑張ろう」って思えるんです。そんな「愛の循環」を今、とても感じています。

(取材・文:土佐豪史)

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