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パラコラム

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「師匠」との出会いで人生を歩き始めた 義足の二刀流アスリート・小須田潤太の挑戦 / パラスポーツ進化論

右脚にスノーボード用義足を装着した小須田選手にポーズをとってもらった(撮影:越智貴雄)

 まるで古代ギリシャ彫刻のようだ。右脚の義足も肉体の一つに組み込まれ、アスリートの身体の美しさと一体化している。しかし、本人曰く、この身体は“未完成”なのだという。

 小須田潤太(オープンハウス)は、3月に開催された北京冬季パラリンピックに31歳で初出場し、スノーボードクロス男子で7位入賞を果たした。その半年前には東京パラリンピックにも出場していて、陸上走り幅跳び男子(義足T63)でも7位に入った。そう、彼は陸上選手とスノーボーダーの「二刀流」なのだ。

 陸上とスノーボードでは、使う筋肉が異なる。本人も「少なくとも、スノーボードが陸上に生きることはない」と認める。それでも、「二刀流という意識はない」と話す。難しい挑戦をしているのに、淡々と日々のトレーニングを重ねる。

走り幅跳びとスノーボードの二刀流アスリートとして活躍する小須田(撮影:越智貴雄)

 なぜ、困難な道をあえて歩み続けるのだろうか。その背景を探ると、事故で右足を失う前の「自分」と、その後に出会った「師匠」との存在があった。

 2012年3月31日、その事故は起きた。契約社員として勤めていた引っ越し会社で2トントラックを運転していた時、中央分離帯に乗り上げて車が横転した。年度末の3月は、引っ越し業界の最大の繁忙期だ。実際、3月はほとんど休みなく働いていた。忙しさがピークを迎えたこの日の事故の原因は、居眠り運転だった。

「気がついたら膝の骨が剥き出しで、そこから下がなくなっていました。でも、自分の脚のことよりもトラックに載せていた荷物のことが心配で。麻酔が効くまではそのことばかり考えていました」

 インタビューをしていて驚いたのは、人生を大きく変えた大事故なのに、どこか淡々と語っていたことだ。事故を起こしたことも「自損事故だから、誰かの責任であるわけでもないですしね。脚がなくなったことも悩んだりすることはなかった」と話す。

 翌年1月に引っ越し会社に事務職で復職すると、松葉杖で通勤した。脚の切断でも、膝から上を切るか、下を切るかで義足に慣れるまでの難易度が大きく変わる。大腿部から切断した小須田の場合は、義足を使いこなすことは容易ではなかった。何度やっても調整がうまくいかず、自分の脚で歩くことはあきらめていた。

 本人としては、当時は「歩けなくても生活していける」と言う気持ちがあったという。高いものを求めず、今の生活に満足する。それが事故前からの彼の生き方だった。

 子どもの頃から運動神経がよく、何をやっても人並み以上にできた。小学校から続けていたサッカーも、高校1年の時に辞めた。大学も推薦で入れるところを適当に選んで入学して、2年の時に中退した。人並み以上にできて、周囲から期待があっても、何か一つのことに打ち込むことはなかった。小須田は当時の自分をこう表現する。

「何をやっても何となく中の上でできてしまう。だけどそれ以上はやらない。大学を辞めたのも特に通う理由がなかったからで、『そんなに頑張らなくてもいいよ』という考えが自分の中では強かった」

山本篤選手のとの出会いによって、陸上をはじめた小須田(撮影:越智貴雄)

 そんな考え方を一変させる出会いが訪れた。事故から3年以上経った2015年8月、理学療法士からの紹介で、義足ユーザー向けのランニング講習会に何となく参加したことだった。

 そこで出会ったのが、講師をしていたパラ陸上のメダリストである山本篤選手だ。講習会の参加者は10人程度。陸上用の義足を装着すると、グラウンドを颯爽と走った。右脚を失ってから走ることなど考えもしなかった小須田には衝撃的な光景だった。同じ大腿部から切断している山本が走る姿を見て、心の底から素直に「スゲー人だ」と思えた。その日の夜、懇親会で山本と話をした時に「タバコをやめろ」と言われ、すぐに禁煙した。

 歩くことをあきらめていたのに、義足の練習を始め、体づくりも始めた。事故後は運動をしていなかったので「ガリガリだった」と言う。当初は練習の後は筋肉痛が襲ったが、これまで感じたことのない充実感があった。

 その後も、山本は親身になって世話をしてくれた。何十万円もする陸上用の義足が買えない時は、「一緒に練習しよう」と声をかけてくれ、山本が以前に使用していた義足を貸してくれた。

 本格的に陸上を始めると持ち前の才能を開花させた。2016年から国内大会に参加し、2020年に開催予定だった東京パラリンピック出場に照準を定めた。事故後も親切にしてくれた引っ越し会社を退職し、不動産会社に転職。競技中心の生活をしながら、宅建の資格も取った。

スノーボード専用の義足を右脚に装着して滑走する小須田(撮影:越智貴雄)

「パラリンピックに出たいとか、みんなが憧れるアスリートになりたいとか、そんなことは今も考えていないんです。人間として尊敬している篤さんに、いつか勝ちたい。それだけ。生まれて初めて目標ができた。今では、義足になってよかったと思っているんです」

 スノーボードをやり始めたのは、2017年だった。

「篤さんが、国内のパラスノーボードの大会で優勝したというニュースを見たんです。篤さんが初めて走る姿を見た時以上の衝撃でした。陸上で目標としている人が、スノーボードでもトップになっていた」

 スノーボードは中学生までに何度か体験したことはあった。でも、脚を失ってから再びやることになるとは想像もできなかった。衝撃を受けた時に思ったことは「自分もやってみよう」。同年末にスキー場に行ってみた。

「とりあえず日常用の義足で滑ってみたら『あれ、意外といけるな』と思ったんです。それですぐに競技用の義足を買って、大会に出場したら、たまたま『強化選手にならないか』って声をかけられたんです」

 スノーボードでの成長も早かった。2021年12月には、フィンランドで開かれたワールドカップで3位に入り、冬の北京パラリンピック代表に選出された。二刀流アスリート・小須田潤太は、半年の間に2度のパラリンピック出場で入賞するという快挙を成し遂げた。しかし、目指すところはもっと高い。

「パラスノーボードでは、体重がある方が有利なことを北京で痛感しました。自分はまだ体が小さいので、これから10kg体重を増やす。それが今の目標です。もちろん、体重を増やすことで成績が悪くなる可能性もゼロではないですが、自分の中では『これがベストだ』と感じる身体が見つかっていない。進化するためには何かを変えないといけない」

 目標が見つかった時、人間は変わる。そして、それをクリアした時、さらに高い山が見える。二つのパラリンピックに出場して痛感したことがある。

「やっぱり、メダルを獲らないとダメだと思った。これは、篤さんに勝ちたいと思っているのと同じぐらいシンプルな思いです」

 二刀流アスリートが見ている山は誰よりも険しい。だが、それを登ろうとしている本人は、誰よりも楽しそうだ。

文:土佐豪史

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