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パラコラム

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永田裕幸「模索の3年間、だからこその今」

永田裕幸選手(左)=日本車椅子バスケットボール選手権大会(撮影:越智貴雄)

永田裕幸選手(左)=日本車椅子バスケットボール選手権大会(撮影:越智貴雄)

 リオデジャネイロパラリンピック日本代表候補の永田裕幸。昨年、リオの切符を懸けて行われたアジアオセアニアチャンピオンシップ(AOZ)を戦ったメンバーの一人だ。彼が初めて日本代表候補の合宿に招致されたのは、2012年1月。ロンドンパラリンピックに向けて選考が進んでいる真っただ中のことだった。永田にとって、そこは別世界だったという。
「選手はみんな、顔は知ってはいたけれど、話したこともない人たちがほとんど。その中で、言われることも求められることも初めてのことばかりで……」
 当時の彼にとって、代表やパラリンピックは遠い存在だった。そんな永田に転機が訪れたのは、3年前のことだった。

小さな自信から大きな変化へ

 2013年11月に行われた「北九州市制50周年記念国際車椅子バスケットボール大会」。それが、永田にとって初めて日本代表の一員として臨んだ国際大会の舞台だった。

 日本、オーストラリア、カナダ、韓国の4カ国で総当たり戦を行い、上位2カ国で決勝、下位2カ国で3位決定戦を行なった結果、日本は3位。世界における位置を確認し、日本はそこからリオへのスタートを切った。

 初めての国際大会を経験した永田は、大会後にある思いを抱いていた。
 「もっと、強くなりたい」
 車椅子バスケットボールを始めて5年、初めて湧いてきた感情だった。

「初めて日本代表の試合に出て、力不足を感じることも少なくありませんでしたが、手応えもありました。特に韓国戦では“自分もこれだけやれるんだ”と思うことができた。だからこそ、もっとやりたい、もっと強くなりたい。そう思ったんです」

 その気持ちが、永田を練習へと向かわせた。大会後、永田はそれまであまり好きではなく、継続できでいなかったウエイトトレーニングにも力を入れるようになり、コート上の練習でも、より集中して行うようになった。初めての国際舞台でつかんだ小さな自信が、車椅子バスケへの意識を大きく変え、そして本気でパラリンピックを目指し始めるきっかけとなった。

 その後、永田は常に代表候補の合宿に呼ばれるようになり、2014年の世界選手権、アジアパラ競技大会では12人の代表入りを果たし、世界の強豪と戦った。だが、選ばれ続けていても、まだ代表チームにおける自分の役割が確立されていないことに、永田は悩んでいた。同じ持ち点2.0(*)の豊島英や藤澤潔は、それぞれの強みをアピールし、チームに貢献している。その姿を見ながら「果たして、自分には何ができるのか」を考え続けていた。

永田裕幸選手=日本車椅子バスケットボール選手権大会(撮影:越智貴雄)

永田裕幸選手=日本車椅子バスケットボール選手権大会(撮影:越智貴雄)

成長を促したライバルの出現

 そんな中、急速に台頭してきたのが、高校1年生(当時)の鳥海連志だった。まだ粗削りではあるものの、スピードやボールさばきにおいては代表の中でもトップクラス。さらに吸収力の速さも、10代である鳥海の武器の一つとなっていた。同じ持ち点にまた一人、強力なライバルが出現し、永田の焦りは募っていった。

「豊島には随一のディフェンス力があって、藤澤にはミドルシュートがある。そして鳥海にはスピードと巧みなハンドリングがある。じゃあ、オレにはいったい何があるんだろう……」
 悔しさ、焦り、不安に襲われながら、永田は自分の強みを模索する日々を過ごした。

 ようやく答えを見つけることができたのは、2015年8月、宮城県角田市で行われた代表候補合宿でのことだった。それは約2カ月後に行われるリオの出場権が懸かった予選を戦うメンバーの最終選考会で、選手たちにとっては最後のアピールの場だった。

 崖っぷちに立たされた思いで臨んだ永田は、合宿中、もう一度自分を見つめ直した。
「自分の最大の強みは、カットインプレー。ディフェンスがハイポインターに付いた時に、空いた自分がゴール下に切り込み、シュートすること。それとトランジションの速さ。だったら、それをアピールしていくしかない」
 ライバルたちのことを気にし過ぎるあまり、自分自身を見失いかけていたことに気付いたのだ。

 合宿終盤、練習試合で相手の隙を突いて積極的にゴール下に切り込んでいく永田の姿があった。その永田のプレーを、周囲も高く評価していた。「今回の合宿では、永田がとてもいい動きをしていて、シュートの確率も高かった」と及川晋平ヘッドコーチ(HC)。キャプテンの藤本怜央も「これまで器用さはあったものの、正直これといったものがなかった。でも、今回はインサイドに切り込む力と、そこで勝負できるシュート力を見せてくれた。また一つ、日本の強みが生まれたなと感じました」と、チームメイトの成長に目を細めた。

 永田はこう振り返る。
 「角田での合宿の頃が一番つらい時期でした。若い鳥海選手が出てきたことで、かなりやばいなと感じていたんです。でも、だからこそ、自分がどうすべきかを考えることができました。鳥海選手の存在はいい刺激にもなりましたし、自分のレベルアップにつながったと思います」
 合宿後、永田は晴れて12人のメンバーに選出され、10月のAOZに出場。リオ行きを決めた歓喜のシーンをチームメイトと共に迎えた。

認めてくれた指揮官への思い

 しかし、そのAOZでは満足のいく働きをすることができなかったと感じている。だからこそ今思うのは、今年9月のパラリンピック本番で力を出し切ることだ。
 「僕にとって一番は、及川HCの期待に応えること。AOZではそれができなかった。だからリオでは自分の仕事を全うしたいんです」
 永田には及川HCに言われた忘れられない言葉がある。

 公式戦では初めて日本代表に選出された2014年世界選手権。その直前の合宿で、彼は自分のプレーに悩んでいた。
 「自分が得意としているのは、攻撃に転じようとする相手のボールをカットするプレー。ただ、それはチームの約束事としてあるベーシックには反するプレーだったので、やるべきではないのかなと迷っていました」

 チームの約束事を守るべきか、それとも自分のプレーを大事にすべきか――。永田が悩んでいることは、指揮官にはお見通しだったのだろう。ある日、永田は及川HCにこう言われたという。
「そのプレーはすごくいいんだから、どんどんやりなさい。その強みはなくしてはいけない。ただし、相手の動きをきちんと止めてからカットにいくこと。その精度を高めれば、チームにとって大きな武器となるはずだから」

 及川HCが自分の強みを認めてくれていたこと。そしてそれを伸ばそうとしてくれたこと。それが永田にはうれしかった。そして、そんな指揮官の期待に応えたいという気持ちがより一層強くなったという。

 永田は言う。
 「僕は決して目立つプレーヤーではないし、プレーに華やかさがあるわけでもありません。でも、地味でも目立たなくても、全然構わないんです。とにかく、自分に求められている仕事をして、チームに貢献すること。今はそのことしか考えていません」

 今月末には、日本車椅子バスケットボール連盟が日本代表候補12人を決定する。「人事を尽くして天命を待つ」。そんな心境の中、永田は練習の日々を送っている。

(文・斎藤寿子、写真・越智貴雄)

(*)車椅子バスケットボールの選手は、一人ひとり障がいの程度により「持ち点」があります。障がいの重い方から、1.0点、1.5点、2.0点、2.5点、3.0点、3.5点、4.5点の8つのクラスに分けられ、試合ではコート上の5人の合計が14点以内と決められています。クラス分けすることにより、さまざまな障がいを持った選手が同時にコートでプレイできるようになります。

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