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パラコラム

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「初の国際舞台で得た教訓」 ~パラカヌー・瀬立モニカ~

練習での瀬立モニカ=2016年1月(撮影:越智貴雄)

練習での瀬立モニカ=2016年1月(撮影:越智貴雄)

 リオデジャネイロ大会で、初めてパラリンピックの正式種目として行われるパラカヌー。日本人唯一の代表選手が、18歳の瀬立モニカだ。

練習で艇の進路方向を確認する瀬立モニカ=2016年6月(撮影:越智貴雄)

練習で艇の進路方向を確認する瀬立モニカ=2016年6月(撮影:越智貴雄)

 瀬立にとって、忘れることのできない、いや忘れてはいけないレースがある。昨年、初めて出場した世界選手権だ。決勝のレース、瀬立はスタートで艇が右方向に曲がるという大きなミスを犯した。その結果、一度スピードを落として、艇の進路方向を修正しなければならなかった。他の艇が加速していく中、瀬立は一人大きく後れをとり、結果的に最下位となった。

 当初、進路方向が曲がった要因は、スタートでの技術的なミスだった、と考えていた。しかし、何度もレースのビデオを観ているうちに、そうではなかったことに気が付いた。

「レースでは、スタートの瞬間に『あ、ミスをした!』と思って慌てました。でも、ビデオで見る限り、スタートは決して悪くないんです。にもかかわらず、勝手に『ダメだ』と思い込んでしまった。それって何なんだろうって考えた時に、戦闘放棄だったんじゃないかって。無意識にですが、ミスをしたと思い込んで、勝負から逃げたんです。気持ちが曲がれば、当然、艇も曲がる。最低なレースをしてしまった、と思いました」

「選手として、あるまじき行為」と瀬立は自分自身を責めた。そして、心に誓ったのだ。二度と同じ過ちは繰り返さないと。世界選手権後、彼女は携帯のトップ画面を、そのレースの結果が記されたタイムリストの画面にした。それを見る度に、気持ちを奮い立たせてきたのだ。

 今年5月に行われた、リオデジャネイロパラリンピック最終予選、緊張しながらも強い気持ちは少しも揺るがなかった。
「自分に負けるレースは絶対にしない」
 1年前とは違い、艇は曲がることなく、しっかりとゴールへ向かっていった。それが、リオへとつながっていったのだ。

筋肉トレーニングを行う瀬立モニカ=2016年4月(撮影:越智貴雄)

筋肉トレーニングを行う瀬立モニカ=2016年4月(撮影:越智貴雄)

競技人生を支える唯一無二の存在

「コーチがいなければ、今の私はありません」
 瀬立の競技人生に、欠かすことのできないのが西明美コーチの存在だ。

 健常の西コーチにとって、体幹を使うことのできない瀬立を指導することは、実は簡単なことではない。自らが経験したことのないことがほとんどだからだ。パラカヌーのなかでも、体幹や足の踏ん張りが効かない瀬立のクラスは、特に難しい。それでも可能な限り、瀬立の体になったつもりでイメージしてトレーニングメニューを考えているという。そして、それを瀬立自身がアレンジしていく。こうして、2人で試行錯誤しながら、ここまでやってきた。

 瀬立が、西コーチとの関係がより深まったと感じているのが、今年3月に行われたハワイでの自主トレーニングだ。約2週間、2人は同じ時間に起きて、食事を共にし、そしてトレーニングに励んだ。夜は、同じベッドで寝た。瀬立は、より西コーチとの距離が縮まったような気がしたという。

瀬立が「太陽みたいな存在」と信頼をよせる西コーチ(右)=2016年6月(撮影:越智貴雄)

瀬立が「太陽みたいな存在」と信頼をよせる西コーチ(右)=2016年6月(撮影:越智貴雄)

「コーチは、楽しませてくれるし、怒ってもくれる。私にとっては、温かく包んでくれる、まるで太陽みたいな存在なんです」

 そして、パラリンピックへの思いを訊くと、瀬立はこう答えた。
「支えてくれている人たちへの恩返しをしたいですね。特に、コーチを喜ばせたい。今では、コーチの喜んでいる顔が見たいからやっているようなところもあるんです」

 リオの地で、コーチに嬉し涙を見せるつもりだ。

<瀬立モニカ(せりゅう・もにか)>

1997年11月17日、東京都生まれ。筑波大学体育学群1年。中学2年から江東区のカヌー部に所属。高校1年の時、体育の授業で倒立前転をした際にバランスを崩して転倒し、体幹機能に障がいを負う。高校2年の夏からパラカヌーを始め、2014年、2015年と日本選手権で連覇を果たす。2015年、初めて世界選手権に出場し、決勝に進出。今年冬にはクロスカントリーの大会に出場するなど、筋力アップを図った。日本パラカヌー界にとってパラリンピック出場第1号として、リオに臨む。

(文/斎藤寿子)

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